気がついたときには寺の境内に座っていた。それ以前のことは何も覚えていない。
まだ子供だったこともあったし、自分の置かれた状況にぼんやりとしていたこともある。
だから何故、咲宮道順が自分に会いに来たのか知らないし、引き取る気になったのかも判らない。
その頃、既に咲宮家には長男の水生が誕生していたのに、血の繋がりどころか素性も知れない子供を引き取る理由があったはずもない。
けれど感謝している。それは本当だ。
伸ばした指を握り締めた小さな掌。我が子と隔てなく愛情を注いでくれる手。進む道を強制ではなく選ばせてくれながらも、導いてくれる手。
感謝している。
だからこそ判らないこともある。
何故彼らは、そこまで受け入れてくれるのか。



愛しき笑顔



「天生くん」
至近距離で聞こえた声に、はっと息を飲んで顔を上げる。
どれほどぼんやりと考え込んでいたのかと思ったが、縁側から見える庭の光景は日に照らされた影さえも何の代わり映えもない。どうやら長くてもほんの数分のことのようだ。
「……あのね天生くん。普通、声をかけられて気づいたらとしたら、そっちの方を向くものじゃない?」
いつまで庭を眺めて呆けているのと軽く溜息を吐かれて首を捻ると、すぐ横にしゃがみ込んで、顎を支えるようにその下に両手を添えた女性が大きな目でじっと天生を眺めていた。
……来ていたのか」
「そうですとも。来ていたのよ。縁側に座って微動だにしない君を見つけて、しばらく観察しているうちに、あんまりにも動かないから心配になってきたくらい前に、到着していたの」
思った以上に長く呆けていたのか、それとも彼女が焦れる事が早かっただけなのか、ともかくろくでもないところを見られたような気分になって、天生は眉を寄せた。
それを見て、彼女は小さく笑う。
彼女は昔からそうだった。表情が乏しいと言われることの多い天生のことをよく見ていて、何気ない動作でその心情を察してしまう。
それは懐に入れるものを厳選する天生には居心地が良いが、時には羞恥を呼び起こす。
彼女は天生の機嫌を損ねたのではなくて、呆けていた自分を恥じていることに気づいているから笑ったのだ。
まるで子供のような内心を見透かされるのは、いささか面白くない。
「一人か?志筑さんもご一緒か?」
「お父さんは離れよ。道順おじさまとお話中」
はふと息をつくと天生の隣に腰掛けて、縁側から足を降ろした。スカートの裾から覗くすらりと伸びた白い足は、相変わらず細い。
「こちらの庭はいつも清廉ね」
午後の陽射しに照らされた庭を眺める横顔を見下ろす。長い髪を今日は纏め上げていて、白い項が覗く。頬から顎にかけての細いラインが良く見える。
半袖の白いシャツから伸びた腕は相変わらず細く、水生と同じく彼女のこの細い腕のどこから鋭い一振りが繰り出されるのか不思議なほどだ。
志筑との関係を言葉に表すとしたら、恐らく幼馴染だとか友人だとかいうものになるのだろう。
二つ年上の、父の友人の娘。剣術を嗜み、けれど気性は穏やか。昔から水生だけでなく天生に対しても姉のように振舞って、それは今も変わらない。
昔はお姉ちゃんと呼んでいた。お姉ちゃん、と。
いつの頃からか、心地良かった弟扱いがどこか気恥ずかしくなってと呼び捨てるようになったのは一昨年のこと。は初めて呼び捨てにされたとき目を丸めたが、すぐに「天生くんももう高校生だものね」と微笑んだ。
それにまた少し気恥ずかしくなって……呼び方や言葉遣いを替えたからといって対等な立場になるわけでもない。
彼女にとって、自分はまだ守るべき対象なのだと、つくづく思い知らされた。


昔は三日と空けずに訪れていた咲宮家に、一月ぶりに父について訪ねて来ると、昔から弟のように可愛がっていた少年……いや、もう青年と言うべき男が制服姿のままで縁側に腰を掛けて庭をぼんやりと眺めていた。
何かあるのかと視線を追ってみても、いつもの美しい調和が取れた咲宮家の庭が広がるばかりだ。
仕方なく本人に何を見ているのか尋ねようとすぐ傍にしゃがみ込んだのに、驚いたことに気配に聡いはずの彼がまったくに気づかなかった。
いつ気づくだろうかとしばらくその横顔を眺める。
昔は子供特有の、ふっくらとした感触を突くのが好きだった。その頬はいまや、男性のものらしく鋭利な直線へと成長している。今はただ庭を眺めているだけだが、その眼光は本当に年下だろうかと時折疑いたくなるほどの力を持つようになった。
昔から、あまり愛想のよい子供ではなかったけれど、彼が家族を見つめる目が優しいことは知っている。
そしてその目を、にも向けてくれることも。
可愛い弟。
水生と同じくそういうつもりで面倒を見ていたはずの子供。
気がつけばの背を追い越して、手もよりも一回り以上大きくなって、お姉ちゃんから姉さんへと呼び方が変わって、そして、と。
彼の口から彼の声で紡がれると、自分の名前がひどく愛しいもののようにさえ感じる。
初めて姉の敬称が抜けて名を呼ばれたとき、胸が高鳴ったなんて悔しいから天生には一生内緒にするつもりだ。
その端正な横顔を眺めているのもとても楽しいけれど、いつまで経っても傍にいるのに気づかれないのも面白くない。しかもどうやら何かを見ているというよりは、この呆けぶりではただぼんやり座っているだけなのだろう。
は静かに息を吸い、口にするだけで愛しくなる名前を紡いだ。
「天生くん」


「こちらの庭とは言うが、お前の家の庭も似たようなものだろう」
少し不機嫌そうな声で返すと、はころころと鈴を転がすような声で笑った。実のところ特に不機嫌なわけではない。単にそれが天生のいつもの声色、喋り方。
同級生には近寄り難いなんて言われる天生も、の手に掛かれば可愛い弟扱いだ。
面白く、ない。
「趣が違うのよ。そうでしょう?」
同意を求めて首を傾げるに、そんなものかと心の中で思う。するとはそれを察したように勝手に頷いて、この家の庭の趣は落ち着くのよと付け足して笑う。
この家の者でもないのに、その姿は縁側の光景によく溶け込んでいた。
血の繋がりも、何の縁もなかったのに家族と迎えてくれた人々。
家族ではないのに、まるで隣にいることが自然な女性。
縁側についた白い手が見えて、そっと手を伸ばす。
姉さん、来てたの?」
触れる前に聞こえた声に、驚いたように手を引いてしまった。
「あら、みなちゃん。おかえりなさい」
「ただいま、姉さん」
首を巡らせたの視線を追うと、制服の襟を開けながら、鞄を小脇に抱えて中学校から帰ったらしい弟が廊下を歩いてきた。
弟は今でもを姉と呼ぶ。家族でもないけれど、姉のような存在を姉と呼ぶのなら、血の繋がりなんて関係ないのかもしれない。
「ただいま、兄さん」
「ああ、おかえり」
表情が乏しいとさえ言われる天生とは対照的に、水生はふわりと柔らかく、よく笑う。
本人は可愛いと言われることは不本意のようではあるが、未だ少女のような愛らしさが抜けない以上は仕方が無いだろう。
弟を羨む気持ちは毛頭ないが、弟のように素直な気性であればといると時折湧き上がる息苦しさのようなものは感じないのだろうか。
姉さんは、今日は鍛錬に?」
「いいえ、みなちゃんと天生くんの顔を見に来たの。でも手合わせするならそれでも……」
言い差したの言葉が途切れて、水生は軽く首を傾げた。
「今日は胴着がなかったわ。また今度ね」
「うん。僕、鞄を置いてくる」
にっこりと微笑むに笑顔を返して、水生は自室へと兄と姉のような女性の後ろを通り過ぎた。
それを見送って、は手首を擦りながら隣でまた庭を眺めている天生に目を向ける。
「天生くん」
返事は返さない。質問されても答えが用意できないから。
水生と道場に行ってしまいそうな会話に、つい手を掴んでしまった理由なんて、天生本人ですら判らない。
はやがて軽く息をついて本意を聞くことを諦めた様子だった。
なんとはなしに申し訳ない気持ちになって、代わりに違うことを口にした。


手を掴まれて、まるで傍にいたいと言われたようで、胸が一度大きく跳ねた。
水生の手前、冷静を装って見送って、二人きりになってからその理由を尋ねようと思ったのに、天生は答えたくなさそうに黙って庭を眺めるだけ。
無理に聞き出すことはしたくなかったので、諦めて息をついたら天生が驚いたことをぽつりと呟いた。
「俺は、あんな風には笑えない」
「え?」
「……水生のように、母さんのように、父さんのように………」
一体なんの話だろう。天生は元が口数も多くないので、下手に質問で返すと黙り込んでしまう。ある程度は推測をして、当たりをつけようと考える。
「別に、それでいいと思うけれど。みんな一緒でなければいけないことはないわ」
「……そうだな」
どうやら答えを外してしまったようだ。短く感情の伺えないいつもの返答からでも、芳しくない反応を見てとったはもう一度、違う答えを考えてみる。
「みなちゃんも、藤香さんも、おじさまも、確かによく笑うけれど、その笑顔をよく見ることができるのは、みんなが天生くんといて楽しかったり、嬉しかったりするからでしょう?」
つと、天生の目がこちらを向いて、は微笑みながら自分の胸に手を当てる。
「もちろん、わたしも」
膝の上に置かれていた天生の手にそっと触れて見上げると、天生は少しだけ驚いたように身じろぎをした。
「確かに天生くんはあまり満面の笑顔は見せてくれないけれど、天生くんが楽しくないのにその前で笑ったりする人は誰もいない。ちゃんと天生くんが楽しいと、一緒にいたいと思ってるって、そう感じるから笑顔なの」
触れた大きな筋張った剣術家の手を取って、そっと包むように両手で握って。
「それに、滅多に見ることができなから余計に、天生くんの笑顔は貴重なのよ」
ね、と首を傾げて尋ねてみると、天生の口角が僅かに曲線を描いた。
どうやらこの答えも少し違ったようだが、それでも天生には納得のいくものだったようだ。
「天生くんの笑顔がたくさん見たいから、たくさん傍にいさせてね?」
答えの代わりに、天生は目を細めるようにして少しだけ笑った。







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お姉さんっぽくしようとしたら、やっぱりどこかぼんやりとした話に(^^;)
天生くんの制服はブレザーということで。想像したら学ランが似合わなかった……。