「セミがうるさい……」 口に出して言うと、ますますその鳴き声が耳について気に障る。 「ああ、もうだめ。絶対ダメ。我慢できない」 扇いでいた団扇を放り出すと、広げていたノートも教科書もまとめて鞄に放り込んだ。 「避暑に行こう」 蝉時雨 「……それでうちに来たの?」 水生は縁側で西瓜の切り身を片手に従妹を呆れた顔で見やる。 は氷水を張ったタライに浸した足で水遊びをしながら、やはり西瓜にかぶりつく。 「だって我慢できないって!クーラーは壊れるし!窓開けたらセミはうるさいし!」 「それを言ったら、うちだって冷房はせいぜい扇風機くらいしかないし、庭にいる蝉はうるさいし」 「いいの。水生の家は涼しげだから。狭い部屋でセミの声と共生する苦しみなんて、水生にはわかんないよ!」 「そんな八つ当たりされても……」 「この家はいつも思うけど、なんか別空間って感じ。時が止まっているというか」 「古臭いと言いたいわけ?」 「趣があると言ってるの」 しゃくしゃくと西瓜を食べきると、は足先で水の中の氷をかき回した。 「風鈴の音とか、縁側に吹く少しの風だとか、ここにいるとうちより気分的に数倍涼しい気になるの。セミの声まで風情と言っちゃえるよ、ここなら」 「まあ風情はいいけど。勉強に来たとか言ってなかったっけ?」 白けた顔で指差された部屋の机には、やりかけの数学の教科書とノートが広げられることもなく鎮座している。 「後で。暑くてやる気でない」 「……言ってることに矛盾があると思うけど……期末試験は明日からなんだろう?」 「あーとーでー!どうせ今始めても、汗でノートは湿るし、そしたら文字も書きにくくなるし、それでますます腹が立ってやる気をなくすから」 「つまり泊っていく、と言っているわけだね?」 溜息をついて立ち上がった水生に首を傾げる。 「どしたの?」 「が泊るって母さんに言ってくるよ。部屋の用意もいるだろうし」 「藤香おばさまには最初に言ったよ。泊りにきましたーって」 どこまでもマイペースな従妹に、水生は脱力する思いで縁側にへたり込んだ。 「水生の部屋に泊めてもらうつもりだから、よろしく」 「………よく聞えなかった」 今、信じ難いことを言わなかっただろうか、この従妹は。 歳の差は数ヶ月しかない、同じ学年の従妹。間違いなく彼女ももう十五歳ということで、いくら従兄だからといって、異性と同じ部屋で寝ようなどとよくも言える。 「聞えなかった?水生の部屋に泊まるから」 「いくらでも客間があるんだから、布団だけ出してもらえばいいじゃないか!」 「そんなカリカリしなくても。心配しなくても、襲ったりしないから」 「……女の子にそんなことを保証されたくないよ……」 やはり母に客間を用意してもらおうと、水生は西瓜の皮を乗せた盆を持って台所に向かった。 息子しか持たない母は、なにかにつけて遊びにくる姪をとても気に入って可愛がっている。 「あら、お部屋は別がいいの?水生もお年頃ね」 朗らかにそう返されて、思わず溜息が漏れる。 「母さん……だってもう十五歳なんだから」 「そうね。ちゃんももう十五歳ね。だからあと一年なのよ?」 しゃりしゃりと氷を削りながら母が言った謎の言葉に水生は眉間に皺を寄せる。 「あと一年って」 「わたしはね、ちゃんがうちのお嫁さんにきてくれればいいのに、と思っているの」 「………お嫁さん!?」 とんでもないことを言い出した母に、水生は一歩後ろによろめいた。 「そうよ、あと一年でちゃんはお嫁にくることが出来る歳になるのよ。……まあ、水生はあと三年しないといけないけれど」 「ぼ、僕にも選択権があることを忘れないで欲しいな……」 「水生は嫌なの?」 「嫌とかいいとかの問題よりも、今さらをそんな風に見る気にならないよ」 「なら、同じ部屋でもいいじゃない」 「え……?」 どういう意味だろうと顔を上げると、みぞれのシロップをかけたかき氷をふた皿、盆に乗せて手渡された。 「水生がそんな態度だと、天生にちゃんを取られてしまうわよ?」 「兄さんはなんて見向きもしないよ」 「あらあら、そうかしら?さ、早くこれをちゃんに持っていってあげて頂戴。氷が溶けてしまうわ」 いくら可愛いからって、甘やかしすぎだと思う。 こんなことだから避暑だのなんだのと、はすぐにうちに転がり込んでくるんだ。 水生が盆を手に縁側に戻ると、の姿がない。 おやと首を傾げてが座っていたところまで歩くと、すぐ横の部屋にその姿を見つけた。 兄と一緒に。 後ですると言っていたのに、教科書とノートを広げて。暑いと言っていた割には、天生のすぐ近くに座って。 「水生?」 盆を持ったまま、廊下からぼんやりとこちらを眺める水生に気付いたのは兄の方だった。 「え、あ、に、兄さん……」 ノートに視線を落としていたがぱっと顔を上げる。 「あ、カキ氷だー」 せっかく勉強を始めていたらしいのに、はすぐに勉強道具を片付けてしまった。 「水生、ありがとー」 机に盆を置いて、水生はすぐに腰を浮かす。 「そうだ、兄さんの分も作ってもらってくるよ」 「俺はいい。ふたりで食べろ」 「じゃ、水生はわたしと半分こにしよう。天生さんがこっち食べて」 は受け取った器を天生の方に押しやって、もうひとつの器を水生と自分の間に置いた。 「さっき水生とわたしはスイカも食べたしね」 まったくもって正論だが、食い意地の張ったにしては珍しい事を言う。 が天生に懐いていることなんて、知ってはいるけど。 「勉強は日が落ちてからじゃなかったの?」 ちらりと机の端に寄せられたノートに目をやると、スプーンを口に運びながらは天生を見る。 「天生さんが数学教えてくれるって言うから、甘えることにしたの」 「ふぅん……」 水生の言う事はちっとも聞かないのに、兄の言葉ひとつで簡単に。 ちりりと胸を焼くような焦燥に、知らずと眉間に皺が寄る。 「今勉強したら夜は遊べるしね。はい、水生」 「遊べるって、試験勉強なんだから夜もじっくりしておけば……」 お気楽なに注意しようとして、目の前に差し出されたスプーンにしばし活動を停止する。 「はい、水生。あーんして。氷溶けちゃうよ」 「さ……先にが半分食べればいいじゃないか。僕は残りをもら……」 「いいから食べる!」 半ば強引に口の中にスプーンを突っ込まれる。 おかげでスプーンが歯に当たった。 結局、最後までに押し切られて一口ずつ交互に食べた。 向かいに座っていた兄が笑いを堪えていたのは、見なかったことにした。 水生が風呂から上がってくると、居間ではすでに入浴も済ませていたが浴衣姿で天生のすぐ横に座り、今度は英語の教科書を広げていた。 水生は無言で兄とは反対側のの隣に座ると、合わせが甘く胸元が覗いていた浴衣を引いて簡単に直してやる。 すぐ隣にいて、兄はこれが気にならなかったのだろうか。 「水生?」 不思議そうな顔をするに、わずかに視線を逸らしながら注意した。 「女の子なんだから、浴衣はちゃんと着ないと崩れてる」 「あら、そしたら水生が直してあげれば良いじゃないの」 母の上品に微笑みながらのこの言葉に、水生と父が同時に噴き出す。 「藤香……」 「母さん……だからももう十五歳だから……」 「そうね、だからあと一年……」 「僕、もう寝るよ」 これ以上は付き合いきれないと、水生は早々に居間から退散した。 怒っているのか、ちょっと足音荒く廊下を行く水生の後姿を見送って、は水生の母を顧みた。 「えーと、藤香おばさま……」 「ええ、ちゃん。ちゃんとしておいたから。いってらっしゃい」 「ありがとうございます!天生さん、教えてくれてありがとう!」 教科書をしまうと、は急いで立ち上がって三人にぺこりと頭を下げる。 「道順おじさま、藤香おばさま、天生さん、おやすみなさい」 ぱたぱたと遠ざかる軽やかな足音に、天生が首をかしげた。 「ちゃんとしておいた?」 「ええ。ちゃんの希望通り、ちゃんと」 うふふと笑う母に、天生は口を挟むのを差し控えることにした。 触らぬ神に祟りはないのだ。 夜の闇から聞える蝉の鳴き声まで忌々しい。ただの口実だとわかっていても、が今日やってきたのは蝉のせいだと思うとますます腹が立つ。 「まったく、母さんも母さんだ」 そう愚痴を零しながら部屋の障子を開けて。 すぐに閉めた。 「………なんで……?」 「水生!」 後ろから足音がしたと思ったら、背中に勢いよく抱きつかれる。 「!?」 振り返ると、背中にぴったりとくっついては満面の笑みで見上げてくる。 「水生はもう寝るんでしょ?一緒に寝よ?」 「………っ!……じゃ、じゃあこれは!」 スパンと小気味良い音を立てて水生が障子を開くと、部屋の中には布団が二組並んで敷かれていた。 「わあ、さすが藤香おばさま。ホントにちゃんとしてくれる」 「やっぱりと母さんの仕業なんだね!?」 「ひとりで寝るのは寂しいから、水生と一緒がいいって言ったら、おばさまがね」 「なにが寂しいだよ。家ではだってひとり部屋だろう?」 「だから、この家は一部屋ずつが広いから」 「……嘘ばっかり」 じろりと見下ろすと、さすがには気まずいのか水生からそっと離れて俯いた。 「じゃあいいよ。そんなに水生が嫌がるなら、天生さんの部屋に泊めてもらうから」 「え?」 それはそれで問題が。 水生が驚いている間にも、は部屋に入って布団を一組畳み始める。 「ま、まさか本当に兄さんの部屋に」 「天生さんは優しいから、水生みたいに怒んないもん」 落ち込んでいるらしい後姿からは、本当に布団を担いで兄の部屋に雪崩れ込みかねない雰囲気を感じる。 ちりりと胸がわずかに焦げ付くような小さな痛みは、昼間のものと同じだった。 「……わかったよ、この部屋で寝ていいから。兄さんに面倒かけないで」 「本当?」 ぱっと振り返ったの笑顔は花が咲いたようで、水生も自然と顔が綻んだ。 けれども布団を敷き直すの言葉に、すぐに笑顔が引き攣る。 「よかった!水生はお兄ちゃんっ子だから、天生さんの名前を出せばすぐにそう言ってくれると思ったの」 「……………」 わざとか。 がくりと廊下に両手をつく水生に、が笑顔で布団を叩いた。 「さ、水生。寝ようか」 溜息をついて立ち上がると、水生はの前で膝をついて、また崩れかけていたの浴衣の前合わせを直す。 「今度、ちゃんとした浴衣の着方を母さんに習いなよ」 「いいの。こうやって水生が直してくれるから」 「自分でしなさい」 はあ、と溜息をつくと水生は立ち上がって電灯の紐に手を掛ける。 「明かりを消すよ?」 「うん」 ごそごそとが布団に潜り込み、水生は明かりを消すとを踏まないように気をつけて自分の布団に入った。 「そういえば、勉強はもういいの?」 「いいの。一日くらい足掻いたって、そんなに結果は変わんないし」 「じゃあ今日はなにしに来たの……」 今日一日で何度溜息をついたかわからない。 頭痛すら覚えそうで、水生がごろりと寝返りを打ってに背を向ける。 「……水生の鈍感」 「え?」 小さな呟きは、遠くから聞える蝉の鳴き声ほどに小さくて、よく聞えなかった。 「セミがうるさいから、避難したって言ったの!」 「やっぱり蝉のせいか……」 夜になっても、蝉はまだ遠くで鳴いている。 |
鈍いのはお互い様。天生が気にも留めないのは異性と
みなしていないからだと気付きましょう、水生くん…。
お題元:自主的課題