なにか手習いをなさいな。
母に勧められた習い事は、筝曲、茶道、華道、香道。
わたしが選んだのは、剣術だった。
道場決定の決め手は、道場主の子供が大層な美少女だったから。
それだけだったのに。
騙された。



鍾愛



「……騙されたとは人聞きの悪い……」
そう言って、美少女改め美少年は井戸の傍らで手拭で顔を拭きつつ溜息をついた。
白い着物に紺の袴。袖口からすらりと伸びた腕は彼の兄とは違い、優美な繊細さを醸し出している。
「あら、だって矢張り騙されたとしか思えないもの」
縁側に腰を掛けていた少女はくすくすと笑いながら、そっと音もなく立ち上がり少年の側に寄った。
冷たい水で洗い立ての白い頬に触れると、少年は驚いたように身を引いた。
頬に触れたままの姿勢で、宙に浮いた手を見て少女は目を瞬く。
「そんなに慌てて逃げなくても」
「急に手を伸ばされたら、誰だって驚くよ」
ましてや、顔に触るなんて。
小さく呟いた声はきちんと少女の耳にも届いていて、背を向ける寸前に僅かに朱に染まった頬も見えた。
そんな反応がおかしくて、小さく笑うと少年は気を悪くしたように振り返りもせずに歩き出してしまう。
「待って、水生」
軽い足取りで追いかけて細い腕にするりと抱きつくと、矢張り即座に振り払われた。
邪険に、ではなく驚いたように。
!」
顧みた少年は柳眉を逆立て怒りも露にしているものの、頬が赤い。怒っているには違いないのに、如何しても笑いが漏れた。
「そんなに怒らないで」
「……何時も言っているけれど、もう少し慎みを持って欲しいよ」
少年は小さく不満を漏らして、少女に抱きつかれた腕を擦る。
「そんなの、今更なのに」
「もう僕達は、小さな子供ではないんだよ?」
「何がいけないの?」
「何って……っ」
少年が返す言葉に詰まる。
少女は、自身よりも余程可憐と言いたくなる少年の白面を覗き込んだ。
透けるような白い肌も、零れるような大きな瞳も、伏せられた長い睫毛も、少年を構成するひとつひとつが美しく、ひとつひとつが愛しい。
「如何して水生は男になんて生まれたのかしら」
心底無念とでも続きそうな声色でしみじみと聞き飽きた言葉を呟かれて、少年は諦めたように溜息を吐く。
「これも何時も言っているけれど、僕は男に生まれて不満はないよ」
「水生が女の子なら、友達になれたのに」
「……何度聞いても不思議だけど、僕達は友達ではないの?」
「友達ではないわ」
普通は躊躇いを持ちそうな答えを、この少女は何時も明瞭に返してくる。
「では、僕達は如何いう関係なんだろう?」
「わからないわ」
答えはいつも同じだ。
「同門の門下生では駄目なのかい?」
「それもひとつの答えよね」
少女は頷いて、そして首を振る。
「でも、それでは天生さんも信田くんも同じなの。それは厭よ。水生は特別なの」
「特別なのに、友達でもないんだね」
「ええ、そうよ」
もう一度、そっと少女が手を伸ばす。
少年は自らの頬を滑る細い指を、諦めて為すが儘にしておいた。
彼女は、何時もこうだ。
「大好きよ、水生」
「男なのに?」
「男の子だからよ」
初めてこの不毛な問答をしたときには、この答えに酷く戸惑った。
女の子なら友達になれたのに、男だから違う。
男の子だから大好き。
恋を囁いているのかと思ったのに。
彼女は、何時もこう続ける。
「水生が女の子だったらよかったのに」
少年はこの最後に呟きに、何時も同じ言葉を返していた。
でも僕は男だから。
何時もの言葉を紡ごうと開いた口が、今日に限って違うことを呟いた。
「……僕が女の子だったら、もっと好きになっていたということ?」
驚いた。
自ら口にした少年が驚いているのだから、少女の方も大きく目を見開いて数度瞬きを繰り返した。
けれども少女はすぐに、綿毛のようにふわりと微笑む。
「いいえ」
微笑みながら、答えは矢張り明快だった。
「水生が男の子だから、こんなに一等好きなのよ」







鍾愛=非常にかわいがること。あつく寵愛すること。



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