蟲師の中でも古参の一族、薬袋家の姉弟と知り合ったのは異常が出たという話の集落に向かったのだから、ある種では必然のことだった。 だがしばらくとはいえ、旅まで同行することになったのは妙な具合だ。 誘ったのは姉弟の姉のほう、からであって決してギンコからではない。 だが弟のは目に見えて……いや、口に出しても不満を顕わにした。 「なんでこいつなんかと!」 勢いよくギンコを指差した少年が姉を振り返ると、短い髪を無理に括った房が小さく揺れる。拳ひとつ分もないその房を、猫じゃらしで遊ぶ猫さながらに指先で揺らしてみたい衝動に駆られたが、黙って蟲避けの煙草をくゆらせた。実行すれば、少年はそれこそ猫のように背を丸めて怒ったに違いない。 だがくだらない誘惑に乗らなかったギンコとは違い、姉は容赦なく弟の頭を平手で叩く。 お陰で弟の小さな髪の房がまた揺れて、思わず口を押さえて笑いを堪えるはめになった。 「年上に『こいつ』はないだろ、」 お前さんも『あんた』呼ばわりだろうとは心の中だけで思っておく。 「お前も蟲師なんだから、薬が足りなけりゃこの先で困ることくらいは判るだろう。薬を補充するまでなんだから、少し黙ってな」 旅の同行は、そういうわけだ。 泡沫の ギンコよりも小ぶりの木箱を背負った少年は、肩を怒らせて愚痴を零しながら一人、先へ先へと山道を下って行く。 その姉はギンコの横を歩いて、弟に呆れて肩を竦めるだけで止めようともしなかった。彼女の木箱もギンコよりは小さい。姉弟で薬や道具を分けて携帯しているのでその大きさで十分なのだろう。 そもそも、ギンコの手持ちの薬が随分と減っていることに気づいたのは弟ののほうだった。 大量に集まった蟲の影響で具合を悪くした村人達を治療しながら、なぜ蟲がこんなにも一遍に狭い山間の村に集まったのかを調べ、それを霧散させると、ギンコも姉弟もそれぞれ村から離れて旅に戻るために荷物の整理をしていた。 顔を合わせる前からギンコを敵視していた風だった弟のは、顔を合わせてからもやはり終始喧嘩腰で、治療の間の仮宿として提供された部屋で十数日共に寝起きしてもそれはまるで変わらなかった。 ちらちらとギンコの荷造りを気にしては姉に叱られていたは、ギンコの支度が終わるとふいと目の前に立った。 「……お前の荷、随分と少ないな」 「ん?ああ、薬も道具も減って、そろそろ仕入れ時だ。この山の裾野の村に寄ったのも、薬問屋に向かう途中だった。ここには通り道がてら寄っただけだ」 は軽く笑って両手を広げた。 「へっ、淡幽お嬢さんが話す蟲師ってどんなすごい奴かと思っていたのに。別に他の蟲師と何も変わらないじゃないか」 「」 姉は顔をしかめたが、数日の間で子供に絡まれることにすっかり慣れてしまったギンコは、木箱を横に置いて蟲避けの煙草に火を点けた。 「大体こんなもんだろ。蟲師のくせに蟲師に夢でも見てたのか?」 ギンコは事実で返したつもりだったが、は馬鹿にされたと思ったのか、カッと頬を染めて畳を踏み鳴らした。 「お前みたいな奴!なんでお嬢さんが気にかけるのか、さっぱりだ―――」 怒りに眉を吊り上げた顔が、後ろから音がするほど叩かれ前に倒れて見えなくなる。 「人に絡むのも大概にしな」 姉に強く頭を叩かれ、折れて落ちるように首が直角に曲がったせいで、絡まれていたギンコのほうが思わず心配してしまう。 首を曲げたままのを下から覗き込もうとすると、その前に勢いよく顔をあげてギンコを睨み付け、部屋から走り出て行ってしまった。 「おいおい……」 「すまないね。普段から生意気ではあるんだけど、あそこまで馬鹿な子じゃないのに」 土間を駆け下りる音を聞きながら振り返ると、は眉を下げて申し訳なさそうな表情で謝った。 「……お前さん、それは弟があんまりだろ……」 生意気だとか馬鹿だとか、あまりにも当たり前のように言われては、つい同情心も湧こうというものだ。 「お嬢さんの役に立ちたいのに、立てない。お嬢さんに頼ってももらえない。それが悔しいんだろう」 「それを俺に言われてもなあ……若いってことかね」 は軽く息をついてが広げたまま出て行ったしまった荷の方へと戻って、それをまとめ始める。 「前に狩房家へ行ったとき、ちょうどお嬢さんがあんたに文を出したところだった。本家の跡取りのことで、あんたに頼ったことがあったろう?」 「ああ、あれか」 薬袋家の本家の跡取りであるクマドは狩房家に仕える身ではあるが、淡幽にとっては幼馴染の友人とも言える。その友人を心配して、様子を見てきてほしいと頼まれた件があった。 「薬袋の者のことなのに、自分ではなくてあんたにお嬢さんが頼みごとをしたのが悔しかったようなんだ。そんなことだから頼ってもらないっていうのにね」 ギンコは口に含んだ煙を吐き出して、薄いもやの向こうの少女の背中を眺める。 その件に関わったことで、薬袋家の深部ともいえる暗い事情をひとつ知った。 薬袋の蟲師とはいえ、まだ歳も若いは、あの人の領分を越えたとも言える非道な術を知っているのだろうか。 淡幽の傍で仕える薬袋の蟲師のたまは、そうでもせねば進めぬ道もあると呟いたが、淡幽は人の魂を殺してまでも薬袋が蟲師を絶やさぬようにしているとは、知る由もないようだった。だが薬袋の者ならどうだろう? 「……少なくとも、弟は知ってそうもないな……」 直情的で、短絡的。人の尊厳をも踏みにじるかのような術を教えるには、あまりにも不安が大きいだろう。あれが外へ漏れれば、いかに古参の一族とはいえ批難は免れない。 蟲を殺す術を探し続ける薬袋の蟲師にありながら、蟲を無闇に殺すことに批判的な少女。 知っていれば悩んでいるだろう。 知らなければ、これからいずれ一族の闇を知ることになる。 「……柄じゃねえな」 どうにも好きになれない話ではあるが、一介の蟲師がどうこう言っても仕方の無い問題だ。 心配しても何もできやしない。 「心配?」 自分で呟いて驚いた。どうして会ったばかりの子供の心配をするなんてことがあるだろう。 ギンコは煙草を指に挟んだまま、軽く指先で頭を掻く。 「関係ない、俺には関係ねえ」 「ギンコさん?」 俯き加減で目を閉じて呟いていたギンコは、すぐ目の前で声をかけられて驚いて思わず後ろの障子に背中を貼り付けてしまった。 声を掛けたは、ギンコのあまりの反応に驚いたように目を瞬いて首を傾げたが、すぐに気を取り直した様子でそのまま腰を降ろした。後ろを見ると、が広げたままだった荷はもう作り直されていた。 「あのさ、ギンコさんが行くつもりの薬問屋ってここからまだ遠いのかい?」 「あ、ああ。少しあるな。あと西に山をふたつほど越えなけりゃならん」 少女が目の前に移動してくるまでまったく気づかないほど考え込んでいたのかと、自分に呆れながら座り直して足を組むと、は軽く首を傾げた。 「そんなにあって、その荷で足りるの?」 「まあどうにかなるだろ。しょうがねえさ、あてにしてた店が一軒畳んじまってたからな」 「だったらわたしたちと一緒にくる?」 「は……?」 手にしていた煙草から灰が落ちかけて、慌てて吸殻入れを取り出す。 「わたしたちは北へ行くんだけど、でも半月もかからないよ」 「北?この山を越えた向こうの北でそんな近くに問屋なんぞあったか?」 「うん、問屋じゃなくて、一族の取り置き倉みたいなところだよ。今回あんたには世話になったから、薬を分けるくらいはしてもいい」 煙草から吸殻がぽろりと落ちた。 「倉って……そんなもんまであるのか、お前の一族は」 「そりゃあねえ、一族挙げての蟲師家業。流れのあんたよりかは、準備もいいのさ」 「俺よりって規模じゃないだろ」 呆れて呟くギンコに、は笑って手を振った。 そうやって笑う表情は、本当にまだ子供のものだ。 「で、どうする?」 「俺としては願ってもない話だが、弟はなんて言うかね」 「のことは気にしなくていい。あれは拗ねてるだけだから」 が軽く首を傾げると、後ろで括った長い髪がさらりと肩から流れ落ちる。 「……なら、世話になるかな」 先を行くは振り返らない。 勝手にギンコを連れて行くと決めたことに怒っているんだと姉に態度で強く示したいのだろうけれど、当のが気にも留めていないので丸きり空回りだ。 八つ当たりされている当人ながら、ついつい不憫になってしまう。 ちらりと隣を歩く少女に目を向けると、それに気づいたのかは被っていた笠を軽く上げて苦笑いを見せる。 「困った子で申し訳ない」 「いや……それは別に」 判っていたことだとは口にはしなかったが、には伝わったようだ。 もう一度苦笑して、笠にかけていた指を離したので、上から見下ろすギンコからは表情がまた見えなくなる。 がときどき妙に大人びた雰囲気を見せるのは、既に親の手を離れて独立しているからには違いないが、恐らく手のかかる弟がいるから余計にそうなってしまうのではないだろうか。現に大して歳も離れていないのに、弟は随分と歳相応に子供らしい。 「……なら、世話になるかな」 そう、ギンコが同行すると決めた返答を返したとき、は花が綻ぶように嬉しそうに微笑んだ。 それまで見せていた表情とは一変したそれに、ギンコがしばし言葉を失ったほどに。 「よかった!あんたとはもっとゆっくり話してみたいと思っていたんだ。ここでは調査が忙しくて、ろくに話せなかったから」 「俺と?」 「そう、あんたと。狩房文庫に置いてある蟲の話は、殺生のものだけじゃないか。お嬢さんがあんたの話は楽しいって。でもあんたの楽しい話は、お嬢さんが書き留めるものじゃないだろう?黒子を食う蟲の話とか」 「あれか」 初めて淡幽に会ったとき、最初にした蟲の話がそれだった。殺生の話を聞くのはもうたくさんだと言った淡幽に、必要なのは殺生の話だとは知らずに語った話だ。あれが彼女との繋がりの初め。 「あんなのでよければ、道すがらいくらでも話してやるよ。なんだ、実はそれが目的か?」 「感謝しているのは違いない。でも、本当は少しそれもある」 そう言って悪戯が知られてしまった子供のように笑った顔は、まだ十五の娘のものだった。 変わった蟲の話をするだけで、彼女があんな笑顔になれるなら、それも悪くは無い話に思えるから縁とは不思議だ。 |
なんとなく保護者気分かもしれません、ギンコさん……。 |