この世には、人の目には映らぬ生き物が数多と存在する。
ひとつは微細すぎて人の目には見えぬもの。
もうひとつは、すべての生命の原始に近い命。
蟲。
この世の命でありながら、一部の者にしか見えぬその生き物。
そしてそれらの命を目に映し、その生態を探り知る者たちを蟲師と呼ぶ。



花の闇



そこに足を踏み込んだのは、必然とも言えるし、偶然とも言える。
山深い村で原因不明の高熱が出る病が流行っていると聞いたのは、その山の麓近くを偶然通りかかったからで、原因不明の病といえば、蟲の存在を疑うのは蟲師としては当然だからだ。
地元の者に近道だと教えられたのは、踏み締められた跡が辛うじて残るだけの獣道だった。
「おい、こりゃあ素直に道なりに歩いたほうが楽なんじゃないのか?」
顔を上げても、遥か上方まで伸びる背の高い木々と、鬱蒼と覆い茂る草に邪魔をされて、先の道はほとんど見えない。
「……骨だな」
男が溜息をついたとき、前方の木々がざわめいた。
「おい!あんた、ひょっとしてギンコか?」
子供の声に顔を上げるが、どこにもそれらしい姿はない。
「その背負ってる木箱……蟲師だろ?蟲避けの煙草、それにその白い髪、ギンコって奴じゃないのか?」
「その言い草からして、俺の知り合いじゃないらしいな。まず姿を見せたらどうだ」
「あんたが居なくても、この先の村はおれが治してやる!帰れ!」
「帰れって言われてもなあ……」
咥えていた煙草を手に男は呆れた声を上げる。
「患者自身に断わられるならまだしも、同業者に追い返されるってのには納得行かねえな」
「いらないからいらないって言ってるだけだろ!」
「だから……それはお前さんがいらないんであって患者の意見かどうか、俺には判らんだろう。診断がついてるなら、何の蟲か教えてもらえんかね」
「なんでそんなこと……」
「本当に俺がいらんのか、判断材料になるだろ」
、そこにいるの?」
今まで聞こえた少年とは違う、少女の声に視線を前に戻すと、茂みを掻き分け少女が顔を出した。
年の頃は十五かそこら。山歩きの為か茂みを突っ切るためか、手も頭も白い布を巻いて覆っている。着物もたすき掛けを施して、袖は帯に挟んでいた。
互いに正面から対面して、沈黙が降りる。
少女は目を瞬いて、やがて落ち着いた様子で口を開いた。
「あんた……蟲師だね?」
「ああ。お前さんも帰れと言うんかね」
「帰れ?」
少女は怪訝そうな表情で眉をひそめ、それから背の高い木々を振り仰いだ。
!いるんだろう!出ておいで!」
少女の怒りを滲ませた呼び掛けに返答はない。
しばらくして、少女は溜息をついて額を押さえ首を振ると、男に頭を下げた。
「ごめんなさい、弟は意地になっているんだと思う。一緒に来てもらえないかな」
「弟とやらは他の蟲師はいらんと言っていたがね」
「薬が足りないんだ。あの子には材料を探すよう言いつけたのに、まさか蟲師を追い返そうとするなんて」
「やれやれ……」
表情を曇らせる少女に同情するやら、その弟に呆れるやらだ。
少女が求めている薬は蟲師なら一般的に持っている、特に難しいものではなかった。だからこそ、山で材料を探せと言ったり、初見の相手に手持ちの薬も聞かずに連れて行こうとしたのだろう。
弟とやらの言う通り、薬さえあれば珍しい蟲ではないから男は居なくもてもよかった。だが現に薬は足りず、蟲の数が多い以上は頼るべきだろうに。
「ところでお前の弟は俺を知ってる口振りだったが、どっかで会ったか?」
この歳頃ですでに独立している姉弟の蟲師など、会ったのに忘れているとも思えず首を傾げると、少女は少し困ったように首を振った。
「会ったことはない。淡幽お嬢さんにあんたの特徴をお聞きしたことがあるだけだ。ギンコさんだね?」
「なんだ、お前らその若さで狩房家に出入りできるのか!?」
「まだろくにお嬢さんのお役には立ててない。わたしたちは、薬袋の分家の産まれなんだ」
「なるほどな……じゃあ意地ってのは、薬袋の蟲師の意地か」
「ちょっと違う。あの子は、ギンコさんだから対抗意識を燃やしたんだよ」
少女は、村はこっちだと現われたのと同じ茂みに戻って行く。
茂みに服を引っ掛けながらどうにか先に立って歩く少女を追うと、その背中に疑問を投げかける。
「ちょっと違うってのはどういうことだ?」
「……お嬢さんが、あんたのことを気に入ってるから……お嬢さんにとってギンコさんは特別な蟲師だ」
「特別〜?」
ギンコがなんだそれはと眉をひそめると、少女はその反応が面白いとでもいうように笑う。
「変な意味じゃない。お嬢さんは優しい方だ。あれほど蟲に苦しめられているのに、それでも蟲に愛着を持っていらっしゃる」
少女は笑いを沈め、声の調子を落として暗く呟いた。
その背中を眺めながら、狩房文庫で見た紙魚のことを思い出す。
狩房家には時折、身体の一部が墨のように黒い赤子が産まれる。かつて狩房家の先祖が全ての生命を滅ぼしかねない危険な禁種の蟲をその体内に封じたためだ。封じられてなお封印者の体内で生きている蟲を体外へ封印する方法は、墨色の身体を持つ者が、様々な蟲を殺傷する方法を紙に記す、というものしかない。
それゆえに、墨色の身体を持つ者を筆記者と呼ぶ。
そして狩房家の先祖に禁種の蟲を封じたのが、薬袋家の先祖だという。
薬袋は狩房を主筋と仰ぎ、今でも禁種の蟲の殺し方を求めている。
その危険な蟲を封じた書物を保管した倉庫で、紙魚という紙を食う蟲を飼っているのが、現在の筆記者である淡幽だ。
封印した紙が破られれば、禁種の蟲も復活するというのに。
かつて危険な遊びだと呆れて評したことがある。
蟲を封じた墨色の足は動かず、蟲を体外へ封じるために書に記す時にも苦痛を味わうというのに、確かに彼女は蟲を愛でている。
「確かにな」
「だけどお嬢さんの役目に必要なのは、蟲を殺す話だ。自然と狩房家に出入りを許される蟲師は、殺しを旨とする者ばかりになる。……あんたを除いて」
少し声を低くした少女に、ギンコは黙って煙草を噴かす。
それは不憫な淡幽への同情というよりも、微かな苛立ちが滲んでいた。
「なんだな、お前さんも蟲が好きな質か」
「わたし?わたしは別に。好きな蟲もいるけど、嫌いな蟲だっている。それはきっとお嬢さんだって同じだろうけど……」
「じゃあなんだって蟲のためにそんなに怒ってるんだ」
「別に蟲に限らない。余分な殺生が嫌いなだけだ。でもあの子はお嬢さんのためになりたいからと、あんな蟲師たちと同じものになろうとしている」
「弟か」
少女はぎゅっと口を引き結んで黙り込んだ。
蟲に種類は限りなく、新たな蟲を見つけた蟲師の対応はふたつに別れる。
表立った害が見えない蟲は観察の対象と放置するものと、ある程度の調査だけでまず先に殺し方を探る者と。
後になって害が確認されたときのことを考えれば、それが間違いだとは思わない。
それぞれの蟲への対応は長い年月をかけて先人たちが見つけ出してきたもので、蟲師は決して蟲に対する強者ではない。生殺与奪を握っていれば、安心とまではいかなくとも、無駄な警戒まではせずに蟲に対することができる。
そして、万が一の場合に犠牲を減らすことができる。
「……世界は人間のものじゃない。自衛を超えた殺生はただの虐殺だ」
「随分と立派な心掛けだ」
ギンコの口調に揶揄する響きを覚えたのか、少女はしかめた顔で振り返った。
「心掛けとかじゃない。ただの事実だよ。それとも人間はそれだけ高等だとでも?」
「まあそう鼻息荒く怒りなさんな。よく判らんものを殺すのは大雑把で俺も好きじゃない。だがそれもやり方なんか人それぞれだ」
「そっちのほうが余程いい心掛けじゃないか」
「違うな。お前さんより大人なだけだ」
澄まして答えると、少女はようやく表情を緩めて苦笑に似た笑みを浮かべた。
「お嬢さんがあんたのことを気に入っている理由が、判る気がする」
「そりゃ光栄だ」
今度はおどけてそう言っても、少女は怒りもせずに笑うだけだった。
そうして再び茂みを掻き分けて、額の汗を手の甲で拭う。
「ああ、村が見えてきた」
促されて少女の横に並んで茂みを分けながら見ると、崖の下の窪地に数十件の家々が連なって見える。
「こんな山奥でこれだけ住んでるのか……」
感心しながら顎を撫でたギンコは、しかしその窪地までに続く急勾配の斜面に視線を落とした。
「で、こっからどうやって村まで入るんだ?」
ギンコのもっともな疑問に、少女はにやりと笑って右手を真横に上げた。その指の先には、樹齢何百年かと見受けられるような野太い幹を持つ木に、これまた丈夫そうな縄が括りつけられている。
「あれを伝って降りるんだ」
「冗談だろ!?」
「冗談なものか。これを使わないなら、山を迂回するしかない。反対側から回ると二日は余分に時間がかかるぞ。この山は登りと降りが多いんだ。窪地も避けて歩かなければいけない」
では、山の麓の村人は、確かに近道を教えてくれていたわけだ。
だがそれなら、こんな縄降りがあることも言っておいて欲しかった。
心底思うギンコを余所に、少女はさっさと縄に向かって歩き出す。
仕方なしに後に続きながら、ギンコは木箱をしっかりと背負い直した。
「なあ、ところでお前さん、名前は」
「ああ、名乗ってなかったね。わたしは薬袋の生まれの者でという。弟は。帰ってきたらちゃんとギンコさんに挨拶させるから」
正面から顔を合わせても、悪態を吐かれるだけの気がするのだが。
が先に立って縄を掴むと、その状態を確かめるように二、三度強く引いて、斜面に足をかける。
「お前さん、その格好でよく登ってきたな」
薄い緑の色をした着物は、動きやすいようにたすき掛けを施して、袖も帯に挟み込んでいる。裾も短く絞られているとはいえ、洋装のギンコのようには動けないだろうに。
感心するギンコに、は楽しそうに笑う。
「そりゃあ、わたしはあんたより若いから、動作も機敏なんだ」
ギンコが目を丸めているうちに、はするすると慣れた様子で縄を伝って降りて行く。
「……そりゃ失礼」
先ほどの意趣返しらしい少女の反論に、ギンコは小さく笑って後を追うべく縄に手を掛けた。







まだろくにギンコ夢になっておりません(^^;)
蟲師は続き物というより、シリーズとして更新していくつもりです。
今回、声のみの出番だった弟はそのうち淡幽夢でアップしていきたい
と野望を燃やしております。


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