たったの一歩、おおきな一歩





グラウンドに響く声。
白球を追いかけるその姿。
大好きでした。


中学生の頃、好きな男の子がいました。
渋谷有利くん。
まっすぐで曲がった事が大嫌い。
野球が大好きで特にライオンズの大ファン。
昨日の試合結果を教室で興奮気味に友達と話している姿を見るのが、密やかな楽しみだった。
でも一番好きなのは、彼がグラウンドを駆ける姿を見ることだったのに。
野球部で事件があり、有利くんは部を辞めてしまい。
それからは、有利くんは放課後になるとフェンスの向こうを見ないようにしてまっすぐに家に帰ってしまうようになった。
そしてそのまま卒業。
高校は別のところに進学するのだから、卒業式で思い切って告白すればよかった。
そんなことをいつまでもぐずぐずと考えて落ち込んでいたある日。


硬球を打つバットの金属音に足を止めてしまった。
今でもこの音を聞くと有利くんを思い出してしまって、ついその姿を探してしまう。
ここは有利くんの通う県立高校でもなくて、市民グラウンドなのに。
そう思っていたのに、まさかその姿が。
一塁を蹴って走るその姿は。
「有利くん……?」


「あれー?ひょっとしてさん?」
試合終了までフェンスにしがみついて食い入るように見ていたわたしは、急に名前を呼ばれて驚いて、文字通りその場で飛び上がってしまった。
フェンスの向こう、たぶんマネージャーと思われる眼鏡の少年が、わたしを見て笑っている。
同じ中学だったことは覚えているけど、誰だったっけ?
「村田ぁー早くそのドリンク渡せって……」
そうそう、村田くんだ。
喉につっかえていたものが取れたような爽快感で手を叩く。
って……。
「あれ、きみは」
「ゆ……し、渋谷くん、ひ、久しぶり!」
「うん、久しぶりー」
と愛想笑いを返しつつも、有利くんは村田くんにこっそりと耳打ちしている。
聞こえないように気をつけたみたいだけど、聞こえちゃったよ。
あの子、名前なんだっけってさあ……。
ちょっとどころではなく寂しくなったけど、中学三年間ほとんど接触のないただのクラスメイトだったのだから仕方ないのかもしれない。
だよ、とやっぱりわたしには聞こえないように(聞こえちゃったけど)小声で答えた村田くんは、突然笑顔で有利くんの背中を殴りつけた。
「喜べ、渋谷!」
「いってぇなっ!!なにがだよ!」
「ダンディライオンズに女の子のマネージャーが誕生だ!」
「はあ?」
わたしと有利くんの声が重なった。
さん、野球好きなんだってさ。きっとマネージャーしてくれるよ」
「え?ま、まま、マジで?」
「あ、あのちょ……」
なにがどうあって突然そんな話になったのかと大慌てのわたしに、有利くんは驚きながらもちょっと笑顔。
ああ、そんな顔されたら。
「あ、でも急にそんなこと言われても、いくら野球好きでも困るよな」
「こ、困らない!」
わたしが取り付いた勢いでフェンスが大きな音を立てる。
野球が好きというよりは、有利くんが好きなものだから好きな野球なんだけど。
なにもしないで後悔するのは、もう嫌だから。
「えーと、でも土曜とか日曜とか、ほとんどつぶれることになるけど、いいの?」
「全然平気!」
だってそれって、土曜日曜に有利くんの側にいられるってことでしょう?
「じゃあ決まり!いいだろ、渋谷。人手はいくらあってもいいんだからさ」
さんがそれでいいんなら」
「お、お願いします!」
突然降って湧いたチャンスに握り拳で勢い込むと、有利くんがにっこりと笑ってくれた。
「じゃあチームのみんなに紹介しないとね。あっちの入り口から入ってきてよ」
そう言うと、有利くんは試合後の汗をタオルで拭いたりしているチームメイトの方へと戻りながら集合の声をかけている。
指示された入り口に向かおうとしたわたしに、村田くんが意味ありげな言葉をかけてきた。
「頑張ってね、さん。………いろいろと」
どうやら、降って湧いたわけではなくて、眼鏡の天使がくれたチャンスだったらしい。







野球で言えば、ようやくバッターボックスに立ったところ。
勝負はこれから。

お題元:自主的課題


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