最初にユーリが、そして次にがニホンへ帰ってしまった。 ユーリももいなくなると、ヴォルフももう血盟城に用はないとばかりに さっさとビーレフェルトの領地に帰って行った。 暇だ。 仕事がないわけではない。むしろ、ユーリももいないのだからその分、他にやるべき仕事はいくらでもある。 だから昼間はまだいい。 だが夜は。 大事なユーリも愛しいもいないのだと思うと空しくなる。 明日も味気ない任務につくだけだと、つい寝酒に手が伸びがちだ。情けない。 グラスを片手に窓辺でぼんやりと月を眺める。 あの夜も、月は美しかった。 EXTRA1.予約済みの未来 頬に走る小さな鈍い痛みに呆然としてしまった。 は俺の左頬を叩いた手の平を握り締めて、俺を睨みつける。 「さっき!命は差し出さないでって言ったのに!有利はいいけど、わたしにはいやだって言ったのに!」 彼女はユーリと同じだ。 こちらのことは何も知らない。 だが、せっかく向こうから転がり込んできたアクシデントだ。 ヴォルフラムを見習って、便乗させてもらうことにした。 「例え言葉の綾でも、もっと自分を大事にして……お願いだから」 今から俺のしようとしていることなんてまるで気付きもせずに、嬉しいことを言ってくれる。 なんて優しいのだろう。 そして、なんと愛しいのだろう。 この少女は。 の存在は地球にいた頃から知っていた。 なにしろ俺は、ユーリが無事に生まれてくるまでを見守っていたのだから。 が来ているとユーリが叫んだとき、まさかと思った。声が似ているだけだと。 こちらの魂を持つユーリでもない者が迎える力もなしに渡れるはずもない。 だが、確かにユーリの妹だった。 黒い髪、黒い瞳。 双黒の、少女。 青い顔で震えてユーリにしがみつくその折れそうなほど細い身体に、俺の目は釘付けだった。 あのときユーリと共に生まれた少女がこんなにも可憐な乙女に成長していたのか、と。 可憐なばかりではないと思い知るのはもっと後になってからだ。 美しいという言葉などで飾ることのできる姿ではなかった。 俺はただ、怯えて震える痛ましい姿に見とれていた。 健康そうに日に焼けたユーリとは対照的に、透き通るような白い肌。 細い身体のわりには豊満なバスト。そういえば、俺が借りてきた侍女の服では胸が苦しそうだったなんて蛇足も覚えている。 それくらい、彼女を見つめていた。 しばらくして、恐怖から解放されたあとのはますます可愛らしかった。 くるくると変わる表情。柔らかな微笑み。 けれどこの時点での俺のへの思いは、ギュンターのユーリへのものと同レベルだったに違いない。彼女の容姿に惹かれただけで、それはまだ好意の範囲だ。 最初に驚いたのは、ユーリの旅に同行すると強硬に言い募ったとき。 こんなに可憐な少女なのに、やはりユーリの妹か。中々に強情だった。 更に、彼女が武器を自分で携帯すると言い出して驚かされた。 もちろんユーリは渋い顔だったし、俺も正直のところ素人が下手に武器を持つのは反対だったのだが、彼女なりの気遣いだと思って武器庫に案内した。 武器を選ぶ基準がはっきりしていて、しかも手馴れていたことに更に驚いた。 ダンスを踊れたのは、またもや嬉しい誤算だった。 は男が嫌い……というよりは怖いのだろう。 俺だけが平気だと言ってくれたのは本当に嬉しかった。 …の男性恐怖症は、ただ単に苦手だというだけとは思えない。 反応は過剰だし、ユーリの庇い方も尋常ではない。 ユーリの庇い方が尋常ではないのなら、彼女のユーリに対する執着も少し異常とも言えるかもしれない。 船が海賊に襲われたとき、は冷静にユーリを優先した。 突然のあんな事態、だって怖かったはずなのに、そんなことは見せないように強く俺を睨みつけ―――あの瞳に、俺は陥落したのだ。 の強い瞳。 ユーリを思う強い心。 けれどやはり置いていくべきではなかったのだと、後で痛烈に後悔した。 部屋に連れ帰っていれば、が剣を振るうことなどなかっただろうに。 だが同時に、俺はあの選択を間違ったとも思えない。 も言っていたが、ユーリの安全が第一だ。 何度あの場面に戻れたとしても、俺は同じ選択を繰り返すだろう。 が愛しいのは俺個人の感情で、ユーリが大事な人だというのは俺個人の感情と眞魔国国民総ての思いだ。 それを、は痛いほど理解している。 ユーリは眞魔国の魔王だと。 自分には守られる理由がないのだと言った彼女の聡明さがどうしようもなく愛しくて、息苦しいほど憎らしい。俺には怒ってみせたが、どう見ても彼女もユーリのためなら自分の身を軽視している。 ユーリの魔術に引き摺られて、が倒れたときは寿命が縮むかと思った。 になにかあったらなんて、想像したくもない。 失うつらさは、もう十分に知っている。 そんな風に自分が倒れたり、思わぬ魂の出自を聞いたりしたのに、それでも彼女の中ではユーリが優先される。 考えてはいけないことだとわかっているのだが、ユーリが少し、羨ましい。 「明けない夜はない―――か」 粗末な床板で眠るの髪をそっと撫でる。 海に落ちそうになった小さなレディを助けたとき、の言った言葉は特に目新しいものではなかったはずだ。 だが、俺の心にずしんと響いた。 逃げないで、戦って、と。 を好きになって、本当によかったと心から思った。 を好きなのだと、素直に認めた自分に驚いた。 彼女は逃げない。 人を傷つけたと、罪に震え、血に怯えていたのに、このままではユーリの足手まといになると、昂然と顔を挙げ、俺に剣の教えを請うた。 心が負けなければ、いつか乗り越えられる。 強く、優しく、気高い魂。 守られることが彼女の本意でないことは散々言い含められたが、俺は守りたい。 だって、ユーリの意思に反すると判っていて剣を手に取ると決めたのだ。 の意思に反したとしても、なんら悪びれる必要はないだろう。 柔らかく繊細そうなの髪が、俺の武骨な指をするりと通り抜けて落ちた。 「……赤く染めているのはもったいないな」 特に今日という日は。 が求婚してくれたという、今夜は。 ぽつりとそう漏らすと、は小さくなにかを呟く。 こんな場所だから眠りも浅いのだろうと慌てて口を閉ざすが、すぐに柔らかな寝息が続いてほっと胸を撫で下ろす。 少し寝苦しそうなので、の頭を膝の上に乗せてあげようとして、ふと悪戯を思いついた気分で、支えていたユーリの身体を船の壁に預けて身を屈めた。 「取り消さないと、言ったね?」 静かに眠るの耳元で囁くと、微かな寝息しか返ってこないことを確認して今度は少し大胆にそっと頬を撫でてみる。 「ん………」 は僅かに身じろぎしただけで、目を覚ます気配はない。 更に大胆に、今度はその柔らかな頬に口付けを落す。 ―――取り消さない。後悔もしない! 彼女のあの言葉は、自分の命を大事にしろと言ったことに対するものだとはわかっているけれど。 「嬉しかったんだ」 それが違うことに対して言われた言葉でも。 それだって、俺の命を惜しんで言ってくれた言葉だ。 そして俺にとっては、求婚を肯定してくれた言葉でもある。例えペテンでも。 「…………」 眠っているに啄ばむようなキスを繰り返した。 頬に、耳に、瞼に、額に、髪に。 今はまだ、眠っているときにしかこんなことはできない。 ヨザックのように腹を殴られるのはさすがに痛そうだし。 最後に、そっと耳元で囁いた。 「今はゆっくりお休み。だけど覚悟しておいてくれ。俺は、きみを逃がさない」 一方的なキスと一方的な宣言に取り合えず満足しておいて、の頭を膝に乗せると壁に預けていたユーリの身体を、俺の肩にもたれさせようとする。 ふと、目に入った鉄格子越しの月は、目も眩むほど美しかった。 グラスを傾けようとして、それが空になっていたことに気付く。 いくらのことを思い出しているからといって、少し惚け過ぎだろう。 自分に呆れてテーブルに戻るとグラスを置いて上着を脱ぐ。 明日に備えてそろそろ眠るべきだろう。 グラスも酒もそのままに、カーテンを引きに窓に近付く。 見上げた月の光は柔らかく、美しい。 なにを見ても今なら、好ましい点をすべてに繋げてしまいそうだ。 あの船での夜、何度もキスを繰り返したのに、唇にだけはどうしてもできなかった。さすがに本人の意思を確認してからだと思ったのだ。 そんな子供みたいな恋愛、もう記憶にもない昔にしたきりだけど。 それすらも、を思うとくすぐったくて楽しい。 「……どうか必ず……帰ってきてくれ」 に言いたかった言葉を月に向かって呟いて、眠るためにカーテンを閉めた。 |
……実はあの夜こんなことをしていました、この男(^^;) 頬とかは次男的にはセーフらしいです。セーフなのか…。 |