それはユリアン・ミンツがシルバーブリッジのヤン家での生活に、そろそろ順応した頃にやってきた。 むしろヤンがユリアンの生活に順応したというほうが正しいのかもしれないが、この家の主はあくまでもヤン・ウェンリーなのでそう言っても間違ってはいないだろう。 日曜日、学校が休みで朝から家事に勤しんでいたユリアンは、同じく本日は暦通りに休暇の保護者をそろそろ起こすかどうか、掃除を終えた玄関で迷っていた。放っておけばいつまでも惰眠を貪る人なので、適当なところで起こしてあげないといけない。 掃除機を手に家の奥に戻ろうとしたところで、呼び鈴が鳴った。 リビングまで戻って来訪者をモニターで確認する手間が面倒で、掃除機を降ろしてそのまま扉を開けて目を瞬く。 門扉の前に立っていたのは少女だった。黒髪を頭の高い位置でひとつに括りつけ、意志の強そうな曲線を描いた眉の下で快活に輝くブルーグレーの瞳。 少女はユリアンと同じ年頃くらいで、はっきり言ってヤン家へ訪問者としてはひどくそぐわない。 ご近所のどこかの家の娘……にしては、こんな少女は見かけたことがないし、何かの寄付金などを求める家庭訪問だとすると、ごく普通のボストンバックを肩に掛けているのはおかしい。 おまけに、驚いているユリアンを映した少女のブルーグレーの瞳も驚きで見開かれている。 ユリアンが誰何のために口を開く直前に、少女が軽く首を傾げて長い髪がサラリと肩に流れた。 「えーと……君、だれ?」 自宅で出迎えた客にされるものとは思えない質問に、ユリアンは再び絶句した。 招かれざる来訪者 絶句するユリアンに、少女は再び首を傾げて少し後ろに身体を傾ける。 「ここ、ヤン・ウェンリーのうち……だよね」 少し下がって番地を確認したらしい。少女はもう一度ユリアンに目を向けた。 「引っ越したなんて連絡、来てないもん。次の住居者ってわけでもないでしょ?」 「連絡……って、君、ヤン大佐の知り合いなの?」 「うん。それで、君はだれ?」 簡潔に肯定されたものの、それでどういう知り合いなのかがさっぱり判らない。 「僕は……ユリアン・ミンツ。トラバース法で一ヶ月前から大佐の養子に」 「トラバース法!?養子を預かったなんて話、聞いてない!」 少女はその場で飛び上がるほど驚くと、慌てたように門扉を開けて敷地に駆け込んできた。 「え、ちょ、ちょっと」 何者か判らない子供を家に入れてもいいのか、けれど彼女は門扉の電子キーナンバーを知っていた。 困惑するユリアンを押しのけて、家の中を覗いた少女は再び驚いたように立ち止まる。 「……信じられない!」 「な……何が?」 玄関先でボストンバックを肩に硬直した少女に、ユリアンが恐る恐ると声を掛けると、少女は驚きを隠そうともしないで家の中を指差して振り返った。 「綺麗!廊下が綺麗!」 「え、う、うん、さっき掃除してたし……」 「掃除!?君がやったの?あのゴミと埃の山を!?」 今日の掃除はそこまでひどくはない。毎日とはいかなくても、ユリアンは家の中を常に小奇麗に掃除している。 ただし、初めてこの家の敷居を跨いだときは彼女のように立ち止まって絶句したのは覚えている。 彼女とはちょうど真逆に、それこそゴミと埃の山に驚愕して。 彼女はその頃のヤン家の様子を知っているようで、それならやっぱりヤンの知り合いなんだろうか。 ユリアンが再び質問しようとすると、またその寸前で振り返った少女に両手を握り締められる。 「ありがとう!今日は掃除で一日が潰れると思ってたのに、本当にありがとう!」 「え、う、うん」 同じ年頃の少女に両手を握り締めて身を乗り出してまで礼を言われ、ユリアンはしどろもどろに頷いた。 わずかばかり赤くなったユリアンに気づいた様子もなく、その手をぱっと離すと少女は家の中へと駆け込んで行く。 「あ」 照れている場合ではなかった。彼女が誰なのか、ヤンとどういう知り合いなのか、まだ確認できていない。 慌ててその背中を追いかけたが、快活そうな見た目の通り彼女は足が速かった。それでももっと距離があればユリアンの足なら十分に追いつけただろうけれど、リビングを抜けてヤンの寝室までの距離というと、そう長くはない。 少女は迷いなくリビングを駆け抜けてヤンの寝室の扉を開けた。 「やっぱりまだ寝てる!」 そうして、遠慮もなく寝室に踏み込むと、肩のボストンバックを床に放り出してヤンのベッドに膝で乗り上げる。 「ちょっと!」 「兄さん!起きてよっ!いくら休みの日だからっていつまで寝てるの!」 寝室の入り口で、少女を止めようと手を伸ばした状態でユリアンはぴたりと動きを止めた。 今、彼女はなんと言った? 兄さん。 ヤンのことを兄と。 ベッドの中で健やかな眠りに落ちていたヤンは、むにゃむにゃとなにやら呟きながらブランケットを引っ張って蓑虫のように丸まってしまう。 ブランケットの上からヤンを叩いていた少女は、その様子に眉を吊り上げて勝気そうな表情に怒りを上らせる。 「もう!預かってる子に家事全部やらせて寝てるってどういうことよ!」 両手でブランケットの端を掴むと、ベリッと音がしそうなほど見事にそれを剥いで取り上げた。その下からうつ伏せの状態で丸くなっていたヤンが現れて、ユリアンは僅かに覚えた頭痛に額を押さえてしまう。到底、英雄なんて呼ばれる二十七歳の青年将校の姿とは思えない。 おまけにヤンはひっくり返そうとする少女の手を拒むように枕を抱えてますます丸くなる。 「兄さんっ!」 「……せっかくの休みなんだからもう少し寝かせてくれ。連日の疲れが溜まってるんだよ」 「人間、寝貯めはできないんだよ。休日だからってダラダラしてたら体内リズムが狂うだけなんだから、起きて起きて!」 ベッドをこよなく愛するヤンを起こすのはユリアンにとっても毎朝一苦労なのだが、遠慮もなくバシバシと背中を叩いている少女に思わず止めに入ってしまう。 「ちょ、ちょっと、そんなに叩いたら大佐が気の毒だよ」 「いいの!これくらいしないと兄さんは起きないんだから!」 「……と、いうか……君、大佐の妹さん……なの?」 振り上げた少女の手首を掴んだまま遠慮がちに尋ねると、少女は目を瞬いた。 ヤンは幼い頃に母を、士官学校入学前に父を亡くして、それからは天涯孤独だったと聞いていたユリアンには寝耳に水の話だ。 だが彼女はヤンを兄と呼んで遠慮もなく殴りつけ、ヤンも寝呆けているとはいえ、家の中に少女が入っていることを気にした様子もない。 ユリアンはヤンと歳は十五歳離れていて、彼女はそのユリアンと同じ年頃に見える。こんなに歳の離れた妹がいたなんて話は、聞いていない。 「ああ、そっか。ごめんね、自己紹介がまだだったっけ」 少女はあっさりとユリアンに掴まれたままだった振り上げていた手を降ろして、自由になる左手で自分を指差す。 「わたし、っていうの。・。正真正銘の兄さんの妹だよ。お母さんが違うけどね」 「お母さんが違う、って……」 「異母妹……いわゆる腹違いというやつさ」 眠気を引きずった間延びした声に言い足されて弾かれたように振り返ると、ヤンが眠そうに頭を掻きながらベッドの上に起き上がって欠伸をしていた。 「やっと起きた」 「はいい子だけど少々元気が良すぎるところが玉に瑕でね……」 「兄さんはいい人だけど、ぐうたらなところが玉に瑕だよ。おそよう、兄さん」 「おはよう」ではなく「おそよう」との嫌味も気にも留めず、時計を見たヤンは眠気を飛ばすように軽く首を振りながら、後から後から込み上げてくる欠伸を噛み殺す。 「ああ、確かにおはようの時間じゃないかな。ユリアン、朝食にしようか」 「今からだとお昼に近いけど」 「じゃあ朝昼兼用だ」 忌憚のない兄妹のやり取りに、正体不明だった少女の身元にやっと安心してユリアンは息を吐きながら笑顔を見せる。 「じゃあ朝昼兼用の昼食を用意します」 寝室から出て行こうとしたユリアンは、気がついたように振り返って少女に目を向ける。 「何か嫌いなものはある?」 「え、あ、う、ううん。何でも食べるよ」 今まで強気で強引な様子だった少女が、急に声を掛けられて驚いたのか、言い淀んだ様子にユリアンはにっこりと笑みを浮かべて頷いた。 「そう、よかった。じゃあすぐに作るから」 ひらりと身を軽く翻し、昼食のメニューを色々と考える。 ヤンは寝起きだし、昼時には少し早いからもそこまで空腹ではないだろう。それなら少しばかり時間が掛かるメニューでも問題ない。さてどうするか。 掃除された家に感動して両手を握りながらお礼を言ってきた少女の笑顔を思い出して、少し心が浮き立つ。 それを不思議に思いつつ、彼女にも喜んでもらえそうな料理を考えながらキッチンへ入った。 身も軽く寝室を出て行ったユリアンの背中を見送っていたはしばらく無言で佇んでいたが、はっと気づいたように背筋を伸ばす。 「そ、そうだ、手伝わなくちゃ」 「昼食の用意を?いいよ、下手に手を出すよりユリアンに任せておきなさい。それより」 ぎくりと肩を震わせた妹に、ヤンは軽く目を細める。 「……いくらユリアンが美少年だからといって、悪さをしないように」 「悪さって何を!?」 振り返って眉を吊り上げて抗議する妹に、指先を突きつけた。 「さっき。ユリアンの笑顔に見とれただろう」 「う……」 は視線を彷徨わせるように天井に目を向けて、両手を合わせながら口笛を吹く。 「なんのこと?」 わざとらしいことこの上ない。 ヤンは溜息を吐きながらベッドから足を下ろして、傍の椅子に掛けていたガウンを手に取る。 「確かにユリアンはいい子だ。家事もできるし気も利くし、どうやら成績もいいようで運動も得意らしい。それだけに家出娘が手を出したらと思うと申し訳ない」 「手、手、手を出すだなんて失礼な!」 「家出のことは否定しないようだね」 「あ」 ぱちんと口に両手を当ててももう遅い。口を手で塞いだまま、下から上目遣いで様子を伺う妹に、ヤンは苦笑してガウンを羽織る。 「今度の喧嘩の理由はなんだい?捨て犬を拾ってクローゼットに隠してて怒られた?それともボールで鉢植えを割ってしまって、それを誤魔化そうとして怒られた?」 「……まるでわたしが怒られてばっかりみたい」 「じゃあ点数の低いテストを隠して怒られたというところかな」 「そんなことくらいで家出しない」 「じゃあなんだい」 軽く首を傾げて理由を尋ねるヤンに、は溜息をついて無人になったベッドに腰掛けた。 「来週からしばらく、お母さんが仕事でハイネセンを離れるって」 「それで、行かないでって駄々を捏ねたのかい?」 どうも妹らしくない話だとガウンのポケットに手を突っ込みながらテーブルにもたれると、は俯いて首を振る。 「今までにない長期出張になるから、わたし一人置いていくのが心配だ心配だって。あんまり何度も繰り返すから腹が立っちゃって、一人でも大丈夫だよって怒ったら、最後にトドメのように、じっとわたしを見て溜息をついて『心配なのよね』って」 ヤンは思わず吹き出しそうになって、首を捻って肩に口を押し付ける。今吹き出せば、妹のプライドを刺激しかねない。 「そ、それで飛び出して来た?」 辛うじて笑いを含ませない声を出せた。ヤンの確認に、は俯いたまま頷く。 「そんなに家に残すのが心配なら、家からいなくなるからいいよって」 「やれやれ」 親心も元気の良すぎる妹には腹立たしいものだったらしい。しかしその過剰な心配も、恐らくは娘の元気が良すぎるゆえのものだろう。難儀な親子だ。 ヤンは肩を竦めて軽く苦笑すると、もたれていたテーブルから離れて妹の肩を叩く。 「家に一人になるなら、せっかくだからしばらくこちらにいるといいさ。少し遠いけど、ここからでも学校には行けるだろう。家出じゃなくて、私のところに遊びに来たということでね」 「うん!」 ぱっと表情を輝かせて顔を上げたは、嬉しそうに頷いた。 「でも、家にはきちんと自分で連絡を入れること」 「………うん」 途端に嫌そうに声を萎ませたけれど、これは母親に連絡したくないのではなくて、単にバツが悪いだけのものだろう。 家に一人で留守番させるのが心配だと言われて腹が立って家を飛び出すなんて、心配されるゆえんを自分で証明して見せたも同然だ。 「それで、どれくらいハイネセンを離れるって?」 「三ヶ月」 それは心配するだろう。はユリアンと同じ歳で既に十二歳だから、一人で留守番が出来ない歳ではない。母親と二人暮しなのでやはりユリアンと同じで家事全般もこなしているし、歳の割りにはしっかりしていると思う。 そう思うのだが、ユリアンとは違って、どこか危なっかしく心配になってしまうのだから不思議なものだ。 「ユリアンと仲良くしてくれよ」 「うん、大丈夫だよ。あの子、優しそうだし、ちゃんと掃除とか洗濯とか料理とか分担するか手伝うかするから」 素直な返事にヤンが軽く頭を撫でると、は嬉しそうに目を細めてその手に頬を摺り寄せた。 |
妹はお兄さんが大好きなようですが、お兄さんも妹好きの様子の相思相愛兄妹。 |