非番の休日、ソファーでうたた寝をしていたロイエンタールが目を覚ますと、傍に侍っていたはずのの姿が消えていた。
自分が眠っても傍にいろというわけではないが、ソファーから起き上がるとなにという理由もなく少女を求めて廊下へ出る。
自室にはいない、サロンにも姿はない、庭にも出ていない。
さてどこにいるのかと邸内を一通り巡る中で、まるで予想もつかない部屋で見つけることが出来た。
開いた扉に驚いて振り返ったに、ロイエンタールも目を丸める。
「こんなところで何をしているんだ」
そこは故人の部屋だった。
ただし、彼女を拾った男のではなく、その妻の部屋。ロイエンタールにとっては母の部屋ということになるが、ここに立ち入ったことは皆無に等しい。
「か、勝手に入ってごめんなさいお兄様……」
咎められたと思ったのか、慌てて椅子から立ち上がり入り口まで駆けてきて小さく謝る少女に、ロイエンタールは手を振って怒ってはいないのだと示す。
「別に気にしなくていい」
母の生前も死後もほとんど入ったことのない部屋だが、内装を見る限りどうやら父親は妻の死後もその部屋を生前のままにおいていたようなので、他の誰かの部屋になっているというわけでもないらしい。
「でもあの……だ、旦那様には一度きつく怒られて」
以前メイドがこの部屋を掃除しているときに、たまたま通りかかって中に入ったところを父親に咎められたという話だった。
妻の代わり身にしておいて、妻の部屋には立ち入らせないようにしていたらしい。
話を聞いたロイエンタールは既にこれ以上ないほど嫌っていた父親に更に呆れ果てる。
それでは、あくまで彼女が妻でないことを承知した上で、彼女の人格を無視するような扱いをしていたということか、あの男は。
「ここはお前の家だ。住人不在の部屋に入ったからといって悪いことがあるか」
お前の家、と当たり前のように告げられたことを小さく繰り返して、ははにかむように微笑みながら、手にしていた本をぎゅっと抱き締める。
「それは?」
「これは奥様のもので……」
差し出されたのはさほど有名ではないが、無名というわけでもない詩人の詩集だった。
「前にこの部屋に入ったときから、気になっていたんです」
差し出された本を適当に捲って、興味をなくすとすぐに少女に返す。
「詩が好きなのか?」
「詩も、物語も好きです。本を読むのはとても楽しくて」
本当に書籍が好きなのか、少女は返されてた詩集を大事そうに抱えて微笑む。
ロイエンタールは開いたままのドアにもたれて、部屋の中を一瞥した。
ほとんどこの部屋に入ったことはない。だが、まったくないわけではない。
うっかりとこの部屋に入り込んだとき、部屋の住人にぶつけられた嫌悪と恐怖の表情を今でも覚えている。
それ以来、一度もこの部屋に足を踏み入れたことは無かった。彼女の死後も部屋をそのままにしてあったことすら知らなかったくらいだ。邸を相続した後ですら、今日まで一度も足を向けたことすらなかったのは、きっと故人に対する嫌悪があったからだろう。
あるいは嫌悪ではなく……恐怖、か。
だが目の前に柔らかに微笑む少女がいるだけで、仄暗く重い空気が漂っていた部屋の記憶が解けるように消えていく。
手を伸ばしてその艶やかな黒髪を撫でると、はくすぐったそうに首をすくめながら、だが嬉しそうに笑う。
この手を払いのけたりはしない。
罵声を浴びせてくることもない。
「この邸で、お前が立ち入ってはならない場所など無い。……使用人たちの部屋に無断で入ることはさすがに推奨しかねるが」
「そんなの当たり前です」
部屋主がいるのに、その主に無断で入るような非常識さはないと、むくれて頬を膨らませるに、おかしくなってその頬を緩く指先で摘んだ。
悪戯されることを嫌がった少女は、だがロイエンタールが笑うとやがて一緒になって微笑む。
彼女にとっても、いい思い出は少ないだろう邸。
だが彼女は笑う。
名を奪った男にも、自分の存在を消す原因となった女にも、何の隔意も持たないまま。
憎しみには憎しみを、嫌悪には嫌悪を。
向けられた感情をそのまま返し、やがて反射し合う合わせ鏡のようになった親子とは、まるで違う生き物のようだ。
彼女は決して綺麗なだけの存在ではない。名を呼ばれることに執着し、そのために死んだ男を悼んだ、そんな利己的な側面も持っている。
だからこそ、安心する。
綺麗なだけの存在など信じられるはずがない。そこには嘘が多く含まれているはずだ。
だがは自らの望みを持っていて、だからこそ決して兄を裏切らない。

名を呼び手を差し出せば、何の疑問もなくその手を握って返してくる。
彼女は決して、兄に憎しみも、侮蔑も、嫌悪もぶつけない。
だからロイエンタールも、彼女に対してはそんな感情を覚えることがない。
握った手を引き寄せると、は逆らわずに部屋を出た。
誰もいなくなった部屋を一瞥する。
そこには何の影も感じない。日の光の差し込む、ただの無人の部屋だ。
もはや忌避すべき何ものも、この邸にはないのだ、と。
僅かに口の端を吊り上げて笑うと、部屋の扉を静かに閉じた。






「憎しみなんて、知らない顔で」
配布元:capriccio


ロイエンタールは実家にいい思い出なんてたぶんないだろうな
……というところからできた話。
執着だって決して綺麗な感情ではありませんが、
憎しみや怒りよりもずっといいところだってあると思います。


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