「今日からしばらく、執務をできる限り前倒しでやっていく」
ラインハルトの突然の宣言に、キルヒアイスは元帥府へ向かう車内で困惑に沈黙した。
できる限り前倒しといっても、ラインハルトはそもそもが仕事を疎かにしない。
これ以上というと、隙間を詰めて休憩時間などを縮めることになるだろう。
「突然どうなさったのですか」
放っておけば本当にどんどん前倒しに仕事をしていきかねない。彼の副官たちや秘書官が悲鳴を上げることがないように、適度なところで抑えてもらおうとキルヒアイスが説得のために理由を聞くと、存外まともな答えが返ってくる。
「二日ほど休暇が欲しいんだ。だが、個人的なことで執務を疎かになどはできないからな。前々から計画を立てていればよかったが、急に二日も休暇を捻じ込むのならば、当然仕事も真っ当しなくては」
「休暇ですか?」
「ああ、が俺の誕生日は一日共に過ごしたいと、昨日急に零したんだ」
ラインハルトが嬉しそうに、だが照れくさそうにも咳払いで誤魔化ながら理由を告げ、キルヒアイスは意外なような、納得するような、非常に難しいラインの感情に、頷くと傾げるとの境目くらいに首を斜めに動かした。
確かに、今度のラインハルトの誕生日はラインハルトとが正式に恋人と呼べるようになってから初めて迎える記念日だ。恋人と共に過ごしたいという願望は、驚くようなものではない。ただ、あまり彼女の柄ではないと思っただけだ。
「でしたら、無理に前倒しにせずとも、別の者でもよいことは私に振り分けてください。そうすればラインハルト様の負担も減りますし、仕事も滞りません」
「何を言っている。お前も十四日当日は一緒に休暇を取るんだろう?」
「……は?」
「なんだその驚いた顔は。お前は俺の誕生日などどうでもいいわけだな?」
「……いえ、そうではなく」
それではの考えが伝わっていないような気がする。
普段仕事で多忙な恋人が、自分のためだけに時間を割いて作ってくれるというところが嬉しいのではないだろうか。
ラインハルトも特に誕生日祝いにこだわる歳でもないので、キルヒアイスがどうでもいいという態度を見せたことが気に食わないだけなのだろうが、果たしてこの事情を彼女が知れば怒るだろうか落胆するだろうかと、キルヒアイスは密かに同情していた。



完全敗北



「きたる三月十四日、ラインハルトの誕生日。それまでに身に付けたいスキルがあります」
弟とその親友が職場へ向かい、遊びに来ていた妹のように可愛がっている弟の恋人から頼み込まれて、アンネローゼは目を瞬いた。
「あら、なにかしら?」
「あのですね、お金で買えるプレゼントとは別にまた、こう、なんていうか……」
「手作りの物をあげたいのね?」
アンネローゼは察しよく軽く両手を叩く。
「素敵。そうね、あなたたちが結婚の約束をしてから初めてのお祝い事ですものね」
「え、あの姉様……こ、婚約までは進んでない……」
「それで、何を覚えたいの?お料理?編み物?それとも何か繕い物かしら?」
人の話を聞いてやしない。
ラインハルトにとって唯一の肉親であるアンネローゼに歓迎されて嫌なことがあるはずもない。むしろこうしてのことを好いて応援してくれるのは確かに嬉しい。
ただ、穏やかなアンネローゼと気性の激しいラインハルトは外見はともかく内面は正反対なのに、ときどき「ああやっぱり姉弟なんだなあ」と妙に納得してしまう瞬間がある。
今が正にその時だ。
は訂正を諦めて、当初の目的を進めることにした。
「ケーキを焼きたいんです。パウンドケーキとかじゃなくて、スポンジのショートケーキを」
「まあ、誕生日ケーキね。だけどはお料理ができないことはないでしょう?以前作ってくれたパウンドケーキは美味しかったわよ?」
「混ぜて型に流すだけなら得意です」
パウンドケーキは材料と分量を間違えさえしなければ、食べられない出来にはならない、というのがの主張だった。
「一応、家でも練習したんです。ところが何故か罰ゲームで食べさせられる歯さえ欠けそうな勢いの硬いスポンジが出来上がってしまい……!」
握り拳でくっと涙を飲むに、逆にどうやったらそんなスポンジが出来上がるのか聞きたくなる。
「うちの料理人にもコツを聞いたんですけど、ターゲットがラインハルトに限定されてるなら、姉様の味を伝授していただけるのが一番ではないだろうかと思いまして」
「ええ、私はもちろん構わないわよ」
快く承諾してもらえて、は握り拳で立ち上がった。
「ありがとうございます!少しでも姉さまの味に近づけるように頑張りますっ!」
「じゃあ今年のラインハルトの誕生日ケーキはに任せるわね」
「え?」
思ってもみないことを言われたように目を瞬くに、アンネローゼの方こそ意表を突かれた。
「それはちょっと……姉様は姉様で焼いて頂かないと、わたしが寂しいです。ラインハルトにも余計なことを恨まれます」
「恨みはしないと思うけれど……」
むしろが心を込めて作ってくれれば嬉しいだろうと頬に手を当てて首を傾げるアンネローゼに、は力強く否定する。
「いいえ!味を比べられてしまうのは非常につらいところですが、姉様のケーキがないとラインハルトは拗ねますよ。というか、わたしも拗ねます」
恋人のケーキだけでは満足できないなんて。しかもそれを本人である自身が力説するようなことでいいのだろうかと、アンネローゼは二人の交際に不安になった。


「あの二人、本当に大丈夫なのかしら……?」
お互いに得た話をつき合わせて、キルヒアイスとアンネローゼは共に溜息をついた。
ラインハルトが休暇を無理してでも取ろうとしているという話を聞いたは最初は喜ぶよりも心配した。
そうして、無理ではないとラインハルトが請け負うと今度こそ素直に喜んだ。
そこまではいい。
だがキルヒアイスも一緒にと聞いたとき、彼女はがっかりするどころか、それこそ我が意を得たりと、諸手を上げて喜んだのだ。
「婚約しているのだから、もちろん家族の私や家族同然ジークのことをその中に入れて考えるのはいいことよ?けれど、恋人らしい初々しさが足りないような気がするの。二人とも、初めての異性とのお付き合いなのに」
まだ婚約にまでは至っていないはずだが。
キルヒアイスはコーヒーを飲みながら考えた言葉も同時に飲み込んだ。ラインハルトのことだから、交際イコール結婚まで突き進んでも驚くことではないし、そう遠くない感覚だろうと思ったからだ。この場合は、慌てるのはだけだろう。
かつてを共に過ごした三人組の一人としては、その中の二人が結婚するとなると妙な気分にもなるが、どこかの漁色家にさらわれるより断然、彼女の幸せには安心できる。
「いいえ、先のことを考えて家族ぐるみでというのならまだいいの。でもね、あの二人はまだ昔の延長のような感覚で付き合っているのではないかと思うと心配なのよ……」
それにはキルヒアイスも大きく首肯した。
「確かに……そろそろ微笑ましいと言うより、不安になってきますね……」
あの二人が恋愛に対して奥手というより、興味が薄いことはわかっていたことだが度が過ぎれば心配になってくる。
「もっと二人きりになる時間ができるように心がけましょう」
アンネローゼの提言に頷きながら、逆ならともかくこんなことを周囲が推奨するような恋人同士なんてきっとラインハルトとくらいのものだろうとキルヒアイスは奇妙な確信を持っていた。


ラインハルトが働き過ぎないようにキルヒアイスが秘書官や副官たちと調整をして、迎えた三月十四日当日。
キルヒアイスはアンネローゼの指揮の元、隙あらば恋人同士の二人を隣に並べて置いて距離を取ろうと、それも不自然にならないようにしようと努力した。
だが当の二人にさっぱりその気がなく、置いてきたはずのラインハルトが後を追ってきて昨日の残った執務の話をしようとするし、で料理や菓子に夢中だったりする。
親友と姉が頭を悩ませているなど知る由もないラインハルトは、休暇に仕事のことを考えていては休暇になりませんよと説得されて、ようやくと一緒になって料理や菓子に舌鼓を打った。
その菓子がアンネローゼの作ったものだというのが、また姉君にはお気に召さない事態だった。
本番当日、 せっかくのケーキだって会心の出来になったというのに。
「どうしてあそこで、あの子はが作ったケーキの方を取らないのかしら」
普通は恋人が自分の為に初めて頑張って作ってくれたケーキから口にするべきだろうとやきもしするアンネローゼに、キルヒアイスはそうですねと頷いた。
「ですが、楽しみに取っておいたという方向かもしれませんよ?」
「あの子は食べ物に関しては楽しみのものを先に食べる方よ。あなたももそれは知ってるでしょう」
だからあれではダメなのよと舌打ちでもしそうなアンネローゼに、キルヒアイスはふと一瞬正気に戻りかけて、いけないと慌てて首を振る。
そう、正気に戻ってはいけない。
他人の、それも幼馴染み同士の恋愛に野暮ったい口出しをしている気分になってしまう。
とにかく二人が甘い雰囲気にならない限り、アンネローゼの気が済まないのだから、そうなるように努力すればいいだけのことだ。
なぜ自分がと、考えてはいけない。
昼食会が終わると今度こそチャンスだと、ラインハルトからのカードの遊びの誘いを断って席を立った。
「どこへ行くんだ」
至極当然のラインハルトの疑問に、キルヒアイスはしばし答えに逡巡する。元帥府に連絡があって、ではラインハルトの仕事の虫がそぞろ騒ぎ出す。それ以外に急用がと突然言い出すのもおかしなことだ。
「………何か軽く飲めるワインを探してきます」
「食事が終わったばかりなのに?」
「食前酒とは逆になりますが、遊びながら軽く飲めるようなものを。日の高いうちから飲むことなんて休暇でもないかぎりありませんから」
「あら、それなら私はお酒に合うお菓子を作ってくるわね」
アンネローゼが幸いとばかりにキルヒアイスと並ぶと、もトコトコと後をついてこようとする。
「お手伝いします」
「だめよ。今日の主役のラインハルトが一人で待つことになってしまうじゃない。あなたはラインハルトと一緒にいてちょうだい?」
「そうだな、お前はここにいろ」
ラインハルトがの腕を引き戻し、アンネローゼは密かに喜んだ。
とりあえずは丸く収まっただろうかとキルヒアイスがほっと息をつきながら、サロンの扉を閉めようとしたとき、ラインハルトがを注意する小声が聞こえた。
「気が利かない奴だな。姉上をキルヒアイスと二人きりにして差し上げるような気遣いもできないのか」
「あ、そうか」
も手を叩いて納得する。
違う!
なぜ他人に気を利かせようという発想はあるのに、自分たちがそうなろうという気持ちにならないのだろうか。
キルヒアイスとアンネローゼはサロンを出て、無意味な努力をしている敗北感で一杯になった。


もっとも、無意味な努力だったと思い知らされたのは夜になってからのことだ。
夕食会を終えて、軽く四人で雑談をしていたところでラインハルトがそろそろ行くかと恋人に声を掛けた。
「あー、うん、そうだね。ちゃんと四人でラインハルトの誕生日祝いもしたし」
「行くとは?」
を邸まで送ることだろうか。今日はてっきりこの邸に泊まって行く予定だとばかり思っていたのにとキルヒアイスが首を傾げると、ラインハルトは椅子の背凭れに手を掛けたまま驚いたように目を瞬く。
「話してなかったか?俺とは今日は郊外の家の別邸で泊まる予定だが」
「……聞いてません。あなたは帝国宰相ですよ!?警護の関係上そういう話は事前にお願いします!」
「いや、手筈はリュッケが整えている。俺はてっきりお前には話したとばかり思っていた。プライベートなことだから仰々しい警護がつくわけでもなし、恐らくリュッケも俺から話してあると思っていたんだろうな」
慌てて元帥府に警護の人員を手配してもらおうと席を立ったキルヒアイスは、テーブルに両手をついたまま呆然として言葉を失った。
「じゃあ姉様、明日一日ラインハルトをお借りしていいですか?」
「え……え、ええもちろんよ。楽しんでいらっしゃい」
慌ててにっこりと快く手を振ったアンネローゼと、まだ唖然としているキルヒアイスに笑顔で礼を言って、ラインハルトとは一泊だけの小旅行というまでもない旅行に行ってしまった。
二人は最初から、当日は朝から夜までラインハルトにとって大切な四人でその誕生日を祝い、その夜から翌日一日は二人だけで過ごすつもりだったのだ。
考えてみれば、ラインハルトは休暇を当日と翌日の二日取っている。
しばし呆然としていたアンネローゼは、すぐに気を取り直したようによかったわ、と呟いた。
「……見方を変えればこれでよかったのよね。だってやっぱりあの二人は恋人同士の自覚はあったんですもの」
とてもそんな前向きに捉えられません。
今日一日の気遣いがすべて徒労に終わった敗北感に、キルヒアイスはテーブルに両手をついたまま力尽きたように項垂れた。







でもたぶん、二人は健全に遊んで健全に帰ってくると思います。
キルヒアイスがひたすら三人に振り回される話(^^;)
一日遅れた上に、これ本当に誕生日便乗話なんだろうかと疑惑の話でした(笑)


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お題元:自主的課題