が不思議なモノを見るようになったのは、自分の意思を周囲に言葉で伝える術を手に入れて少しした頃からだった。
いや、正しくは生まれ落ちて目が見えるようになってすぐの頃から、映ってはいたのだ。
ただの目にはあまりにも当たり前に存在したために、「それ」を見えない者がいるなどとは思いもよらなかっただけのこと。
雨上がりの地面を這う蚯蚓は、友人らと一緒に捕まえることができた。
だが蚯蚓に似た細長くぬるりとした生き物が空を飛んでいても、誰もそれが見えないと首を振る。あんなにもはっきりと風に流れて飛んでいるのに、誰も見えないのだと。
「そうか、お前も見えるのか」
それを両親に話すと、父は酷く肩を落として目頭を押さえた。
母は手ぬぐいを掴んで土間へと駆けて行くと、しばらく戻ってこなかった。
「どうしてお前まで」
自分はなにかいけないことを言ってしまったのかと不安に思ったに、父はそっと溜息をつくと首を振って苦い笑みを見せる。
「いいや。いいや、。お前は薬袋の分家の者として、よい器量を持って生まれた。それだけのこと。それだけのことだ」
父の言葉と表情は、まるで噛み合っていなかった。



冴やかに見えねども(1)



!あんたまた怠けたね!」
背の高い草の間に寝転んで、まどろむように昼寝に入って意識を混濁させ始めていたは、頭のすぐ傍に立った足と怒鳴り声に目を覚ました。
「……姉さん」
頭上に立った少女は、腰に手を当て呆れたように、怒ったように柳眉を逆立てて寝転ぶを上から見下ろしていた。長い髪が肩からさらりと流れ落ちる。
「申し付けておいた蟲の採集が終わってないって爺さまが怒っておいでだ。さっさと戻りな!」
父の連絡で来た迎えに連れられて行った本家で、さほど歳の離れていない姉がいると初めて知った。姉もと同じく、幼い頃から見える者と見えない者のいる不思議な生物が見えて、早々に本家に引き取られたのだという。
父親が「お前も」と言ったのは、彼女のことがあったからだろう。
は四つになるまで、その存在も知らなかった。両親が何を思って姉の存在を教えなかったのか、正確なところは判らない。
とにかくその四年の間、彼女が一度も家に戻ることはなかったということだけは判る。
それを理解したとき、は家に帰ると泣いて喚いた。
本家からの迎えがきたときも、行きたくないと母に縋って泣いた。けれどあれは両親と離れる不安からきたものだ。
今度の涙は、囚われの身となる恐怖のもの。
修業なのだと諭されたが、家に帰ることも許されず、知りたくもない蟲についての知識を無理やり詰め込まれる、これのどこが囚人でないと言えるだろう。
そうして、本家に連れて来られてから二年、最初に思ったとおり、一度も家には帰してもらえない。
それなのに、同じ境遇のはずの姉は帰りたいとは一言も言わずに背筋を伸ばして前を向いて立派な薬袋の蟲師になろうと日々研磨している。
それが信じられない。
はこの理解できない姉が、あまり好きではない。
草の間から起き上がり、ついた土を払いながら歩き出したところで、ふと思いついて振り返る。
「姉さん、うちに帰りたいと思わないの?父さんや母さんに会いたくはないの?」
姉は驚いたように目を見開き、それから呆れたように溜息をついた。
……蟲師は誰にでもなれるもんじゃないんだよ」
「おれはなりたいわけじゃない」
「いずれ一人前になれば、里に下がることもできる。帰りたければ精進しなさい」
聞き分けの悪い子供に言って聞かせる口調に、ついかっとなって近くにあった草を引きちぎって姉に向かって投げつけた。
「一人前になれば旅に出なけりゃならないじゃないか!おれは家に遊びに行きたいんじゃないんだ!」
旅の空でふらりと立ち寄る場所ではなくて、そこで両親と共に生活がしたいだけなのに。
っ」
姉の怒鳴り声を聞きながら、は涙を拭って屋敷に向かって駆け出した。
帰りたいだけじゃないか。戻りたいだけじゃないか。それがそんなに我侭なことだろうか。
同じ境遇だと思った姉は、ここでの厳しい生活をちっとも苦にしている様子ではない。
寂しいとか、両親に会いたいとか、そんな感情はまるで最初から持っていないかのように。


屋敷まで駆け戻ったが息を切らしたまま手を伸ばすと、触れる前に戸が開いた。
驚いて一歩下がった目に、幾分年嵩の青年が映る。
「クマド、さん」
屋敷から出てきたのは、本家の跡取りの蟲師だった。本家の者が本家に帰ってきてなんの不思議もないけれど、正直なところはこの本家の跡取り息子が非常に苦手だ。
まず表情が乏しい。それに声にも動作にも感情というものがあまり感じられない。
「か……帰ってらしたのですね。お帰りなさい」
「ああ」
それだけ返して、両手を揃えてぺこりと頭を下げたの前を通り過ぎる。
は僅かに口元を歪ませてその背中を見送った。本当に、苦手だ。
クマドは厳しい修業の果てにあんな無表情になったのだと聞いている。もしかしたら自分もああなるのだろうかと思うとぞっとする。
クマドに比べれば、よく怒りよく働く姉はまだ人間らしいといえる。けれど、ひょっとするとあれはクマドのように淡々と蟲師としてのみ生きていく者になる前段階なのかもしれないと、の最近の悩みはそれだ。
もしそうだとすると、もいずれ姉やクマドのように、蟲師になることに何の疑問も反発も抱かなくなるのだろうか。
いやだ、絶対にいやだ。そんなことにはなるものか。そんなのはおれじゃあない。
首を振って必死に否定しながら、開けたままだった戸口から屋敷に入って、再び一歩後ろに下がってしまった。
土間には本家の先代総領が立っていた。
「じ、爺さま……」
、来い」
それだけ言うと、前総領は土間を上がって屋敷の中へ戻って行く。
姉の話のよると酷く怒っているということであったから、これから厳しい説教かあるいは折檻があるのだろうと気が滅入る。どうせ逃げてもこうなるのだから、素直に学べばいいものを何度も姉に呆れられても、時折どうしても反発したくなって、言い付けを破るのだ。
しぶしぶ後ろについて屋敷に上がると、廊下を歩きながら前総領は振り返りもせずに話を始めた。
、支度をせい」
「支度?」
「クマドについて、狩房家へ挨拶に行け」
「クマドさんに!?」
どうして、よりによって一番苦手な人についていかなければならないのかと声が裏返った。
おまけに狩房家。
筆記者が出るあの家のせいで、はこうやって薬袋の宿命に縛り付けられていると思うと、恨みさえ募りそうなあの主家へ、わざわざ挨拶に。
「お前たち姉弟は、今は唯一クマドより歳若い蟲師の見習いだ。いずれクマドが薬袋の総領となったとき、それを支える役目がある。主家への挨拶は必ずせねばならん」
「姉さんも一緒ですか?」
それならクマドの相手は姉に押し付けて、自分は後ろについていけばいいと気楽に考えたところですぐに否定された。
は既に挨拶を済ませておる。此度はクマドとお前だけで行くのだ」
そんな。
思わず叫びそうになった言葉をどうにか飲み込んで、は苦い薬でも飲んだかのように顔をしかめた。


に遅れて屋敷に戻ってきた姉は、クマドについて狩房家へ挨拶に行くのだと言う話を聞いてひどく驚いたが、すぐに何かに納得したように深く頷いた。
「まだお前は幼いと思っていたけれど……いいや、爺さまらしいお考えだ。お前が背負うものを、きちんとその目で確かめておいで」
「おれはそんなの興味もない」
「お前が何もかもが気に入らないのは、まだ背負うべきものが何たるかを理解していないからだよ。淡幽お嬢さんにお会いすれば、お前の気鬱もきっと晴れる」
家に帰りたいという気持ちが、家に帰してもらえない原因の相手に会ったところで晴れるとも思えない。
姉の使命感はやはりまるで理解できなくて、は荷をまとめて肩に掛けると溜息をつきながら立ち上がった。
「それにクマドさんとふたりでだ。道すがら何を話せばいいんだよ、あの人となんて」
狩房家までの道のりはそれほど遠くもないので、明日のうちにつくことができるだろう。
だが一日もの時間を、無口で何を考えているかも判らない相手と二人きりで歩くなんて息が詰りそうだ。
姉はそれには少しだけ苦笑して、の手の甲を軽く撫でる。
「話すことがなければ黙ってついていけばいい。クマドさんはその辺りは気になさる人ではないから」
「ずっと二人で黙々と歩くほうが息が詰る!」
「なら一人で話掛ければいいだろう。あまり欲張るな」
立った一日に道のりの旅であっても、その同行者がもう少し話の通じる相手ならいいと願うことのどこが欲張りなのか、さっぱり判らない。
優しく手の甲を撫でる姉の手を払うようにして、はやや乱暴に障子を開けて廊下へと踏み出した。








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淡幽との初対面の話……なんですが、肝心の淡幽がまだ出てきてません……。