世の中、バレンタインが鬼門だとか厄日だとかいう男は掃いて捨てるほどいるだろう。
チョコレートを貰う宛てがないだとか、あっても義理だとか、それでも希望を持ち続けて連敗記録を毎年塗り替えるだとか。
「もしくは、モテモテすぎて一ヵ月後が怖い奴とかな!けど、おれみたいな理由で厄日な奴は滅多にいないぞ!」
共和学院大学部の敷地を駆け抜けながら、は腕時計を確認する。
「大体、バレンタイン当日にコツを聞きにくる時点でアウトだろ!?しかもラッピングはおれの専門外だってのに、勘弁してくれお姉様方!!」
愚痴を零しながらショートカットにと植え込みを飛び越えて、芝生の上に人影を見つけて目を見張った。
「危なっ……」
空中で着地点を変えることなどできないし、勢い的に確実に踏みつける!
無辜の休憩中の人物を踏みつけるところだったは、芝生に寝転んでいた被害者になるはずだった相手に足を掴まれて、投げ飛ばされた。



厄日の話



「いってぇ!」
「芝生の上だからそれほど痛くはないはずですよ」
人を片手で投げ飛ばした人物は、なんでもないことのようにシレッと言って起き上がる。
「そりゃ受身は取りましたけどー」
「いい反応でしたね」
仰向けに寝転んだまま逆さに見上げたその人物には見覚えがあった。芝生を払うそのなんでもない仕草までが優雅に見える。
「いい反応はそっちですよ、竜堂のお兄さん。まさかあのタイミングで投げ飛ばされるとは思わなかったなー」
「人を踏みつけるよりはましでしょう。僕の事を知っているようですが……ああ、君が例の」
「え、例のって?」
相手は有名人だが自分はそうではないはずなのに。
「毎日終くんに昼食を作ってくるという酔狂な友人ですね」
「うわ、初対面にしてすごい言われよう」
強かに打った腰をさすりながら起き上がったは、友人の兄から酷評に乾いた笑いを漏らす。
「料理人になりたいという話は聞いていますよ。ですが『あの』終くんの食欲を満たすだけの食事を毎日作ってくるなんて、どう考えても酔狂ですね。別に味見程度の量でいいでしょう」
「うーん、この場合、酷評されているのはおれと竜堂とどっちになるんだろう?」
横に転がっていた鞄に肘をついて考えるに、竜堂続は軽く肩を竦めるだけだ。
「ところで人を踏みつけそうになるくらいに急いでいたのではないんですか?」
「き、厳しいな竜堂のお兄さん。遅刻しそうなんで急いでたんですけど……」
が腕時計を確認したとき、ちょうど背後の高等部敷地のほうからチャイムが聞こえて肩を落とした。
「ああ……遅刻決定」
「近道に大学部の敷地を横断していたんですか。大胆ですね」
「大学部のお姉様方に拉致られてたんですよ!大体、なんで竜堂のお兄さんは朝っぱらからこんなところで一休みしてんですか!」
本日、二月十四日。登校途中で大学部の女生徒の集団に拉致された。なんでも手強い相手に贈るものだから、厳しい最終チェックが欲しいという理由で、だ。
その手強い相手が誰にも気付かれないようなこんなところで一休み中とはどういうわけだと、被害者としてそちらのほうにこそ文句を言いたい。
「……ところでさっきから気になっていたんですが」
「人の話を聞いて……竜堂のお兄さん」
訴えをまったく無視されたが脱力感で芝生に両手をついていても気にも留めずに、続は息を吐いて指を差してくる。
「それです。僕のアイデンティティーを終くん中心に言うのはやめてくれませんか」
「あ……っと、これは失礼」
続の指摘に、は頭を掻きながら空を見上げて溜息をつく。
「同じ事を余くんにも言われたのになあ」
「余くんのことも知っているんですか?」
「この間、竜堂に辞書を借りに来てたんで。余くんもねー、いい舌してますよね。料理の味の感想って『美味しい』とか『不味い』とかくらいしか言わない人って結構いるんですけどね。余くんはソースについてとか聞いてくれて―――……あれ、そういやなんでお兄さ……続さんはおれのこと判ったんです?」
料理を作ってくる友達の話は弟から聞いていたとしても、どうして顔まで知っているんだろうと首を傾げると、続はの横を指差した。その先を視線で追っては蒼白になる。
「弁当……っ……ギャー!!ひっくり返ってる!」
鞄の向こうで重箱を入れた袋が横に倒れて風呂敷で包んだ姿を覗かせていた。慌てて紙袋を引き寄せて中を確認して深く嘆息する。
「……まあ、こういう日もあるよな……」
「中身が零れているんですか?」
「いえ、風呂敷で包んでるんで弁当箱からは零れてませんよ。たぶん、中身はぐちゃぐちゃになってると思いますけど」
「その程度でしたら平気でしょう。もっとも、地面に落ちても終くんなら食べそうですけどね」
「竜堂、酷い言われようだな……」
乾いた笑いを漏らしながら、は袋の中の弁当箱を安定させて立ち上がった。
「さて、と。遅刻を怒られてくるか。じゃあお兄さん……と。続さん、さっきは踏みそうになって、すみませんでした」
の謝罪に続は軽く目を丸め、苦笑しながら頷く。
「ええ、踏まれたら大変でした。この場合、投げ飛ばしたことを僕も謝るべきでしょうかね」
「そっちは不可抗力ってことで。ところで、続さんは教室には行かないんですか?」
「一限目が臨時休講になっていたので、しばらくはここで時間潰しですね」
「ありゃりゃ。でも、お姉様方が探してましたよ?」
そのせいで遅刻する羽目になったんだと心の中で付け足しながら大学校舎を指差すと、続は嫌そうに眉をひそめた。
「だから図書館にも行けずに、こんな場所で時間を潰す羽目になっているんでしょう」
「バレンタインチョコを避けてるんですか!?」
続なら大量のチョコレートに埋れる図も想像できそうで、納得するような、お姉様方が気の毒なような。
「受け取るくらい、受け取ってあげたらいいのに」
「他人が製菓会社に踊らされるのは勝手ですが、僕まで巻き込まれる謂れはありません」
「でも、こういうイベントに乗っかんないと、告白できないような奥ゆかしい子とかもいるかもしれないし……」
「一人からでも受け取れば、なし崩し的に押し付けられるのは目に見えています。理由をつけなければ動けないような相手のためにリスクを冒すなんて、冗談じゃありませんね」
「うわーシビアー……」
顔はいいし、言葉遣いも丁寧だが、言葉そのものには剃刀でも仕掛けているような男、竜堂続。噂は正しいようだとは乾いた笑いで空を見上げる。
「それに、一ヵ月後にまた製菓会社に踊らされるのも御免です。儀礼としての贈り物なら返礼もやぶさかではありませんが、イベントに乗っただけのものにどれほど意味があるというんですか」
「いやー……いちいちもっともだとは思うんですけどねえ……」
厳しいなあと呟きながら、は掌で項を軽く撫でた。
「竜堂なんかは今日は喜びの一日ですけどね」
「一日中甘い匂いに囲まれますからね。それで毎年結局、大量のお返しに困って茉理ちゃんに泣きつく羽目になるんです。他人に頼らなければならないなら、最初からイベントに参加しなければいいのに」
他人に頼らなければならないなら。それは一体だれに宛てた皮肉だろうと、アドバイスのために捕まったばかりの身としては、ちょっと同意したくてまた空を見上げる。
それでも彼女達の場合は、大量に膨れ上がったお返しを従姉に作ってもらおうという終とは違って、それも努力の証ではあるとは思うのだけど。
「でも続さん、教室に行くなら結局押し付けられるんじゃ?」
「講義ギリギリに講義室に滑り込み、講義が終わると同時に出て行けば問題ありません」
「でも昼飯時に押しかけられたら……」
じろりと睨み上げられて、は思わずホールドアップしながら黙り込む。
「そこまで君が気にすることではないでしょう」
「いやー、ちょっとばかり事情があって」
なんだかんだと言いながら、アドバイスをしてきた身としては、受け取ってあげて欲しいものでもある。複雑な心境だ。
だがそこまで嫌がるのにチョコを渡そうとしても逆効果かもしれない。
「いっそ、昼メシはこっちに来ませんか?前に余くんも食ってってくれたんですけど……」
「そのひっくり返った昼食にですか?」
「ああ!そうだった!」
頭を抱えて悲鳴を上げたに、続はようやく睨みつけていた視線を納めて小さく笑いを漏らして芝生から立ち上がる。
「さすがに終くんの友人となると、変わった子ですね」
「うわー、これまたおれと竜堂と、どっちが酷評されてることになるんだろう」
「どっちもです」
あっさりと言われて、は芝生に両手と膝をついて項垂れる。
「う、噂以上なんじゃ……」
「人の噂なんてあてになりませんよ」
いや、あなたの場合はかなりあてになっているような気がします、とは心の中だけで呟いた。
そんなを知ってか知らずか、続は服についた芝生を払いながら腕時計を確認する。
「君と話していると面白くて、いい時間潰しになりました。ところで急がなくていいんですか?ここから君たちの教室までの時間も考えると、教室に着く頃には一時間目は半分くらい終わりますよ?」
「うわ、ヤバ!竜堂先生の拳骨って痛いんだよなー!」
「おや、始兄さんの授業ですか。それはご愁傷さま」
「いっそ二時間目から行こっかなー……」
どうせ遅刻がつくのなら、一時間目全体を欠席しても大した差にはならないだろうと思案するに、続はにっこりと笑顔を向けた。
「サボタージュは感心しませんね。僕が誰だか忘れましたか?」
「竜堂先生の弟さん……」
「はい、よくできました」
「判りました、行きますよ、行けばいいんでしょ!?先生に叱られてきますよー!」
後でわざと一時間丸まるサボったと知られるよりは、正直に言って一発拳骨を食らうほうが、まだましだと自棄になって鞄を掴むと、続が見送るように軽く手を振る。
「うちで終くんが君の料理を絶賛していましてね。いずれまた、まともな時に招待してください」
鞄を肩に、弁当箱を入れた袋を片手に植え込みを乗り越えていたは、言っていることとはそぐわないほど綺麗な笑顔の男を振り返る。
「弁当をひっくり返してないときにぜひ!」
の精々の返しの叫びに、続は声を出して笑った。








初めて終くんが出てこない話になりました。続さん登場編。
ようやく四兄弟揃いました。あとは茉理ちゃんだー。
今回の話は、原作で続さんのバレンタインへの姿勢がどこかに出ていたような
出ていなかったような、曖昧な記憶のままで書きました(^^;)


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