「は、何か欲しいものは?」 そう訊ねると、彼女は必ずこう言うのだ。 「いいえ、わたしは何も」 柔らかな笑みを湛えて。 日も落ちて久しい時間、地図を小脇に回廊を歩いていたエラムは、テラスで空に向かって手を伸ばす王太子の背中を見かけた。 周りを見回してみるが、どうやら一人で出歩いているようで護衛が一人もいない。 「殿下?」 テラスに顔を出すと、少し背伸びまでしていたらしいアルスラーンが踵を降ろして振り返る。 「ああ、エラム」 「何かしておいででしたか?」 御用なら承りますよとテラスに踏み出すと苦笑で返された。 「気にしないで。ちょっとふざけてみただけなんだ」 「はあ……」 誰もいないテラスで空に向かって手を伸ばして、何をどうふざけていたのかと首を傾げながらも深く追及はしなかったが、不可解が顔に出たのかアルスラーンはやっぱり苦笑しながら空を見上げた。 「星が取れないかと、思って」 「星ですか?」 つられたようにエラムも空を見上げる。 中天には小さな瞬きがいくつも散って、さながら宝石箱をひっくり返したようだ。 アルスラーンに視線を戻しても、王子はまだ空を見上げている。 それは無理でしょうと言うまでもなく、不可能なことは判っているはずだから、何かの比喩かと思ったのだがその様子もない。 「エラムは、空の星以外で星と言われて思いつくものはある?」 「いえ、それ以外には」 「そうだよね」 「誰かに謎掛けでもされたのですか?」 そんなことをするのはナルサス以外には思いつかなかったが一応訊ねてみると、アルスラーンはどうだろうと呟く。それもまた曖昧な答えだ。 首を傾げたエラムの様子に、アルスラーンは少しばつが悪そうに笑う。 「私が出題されたわけではないんだ。その……少し行儀が悪いけれど、話が聞こえただけで」 アルスラーンは溜息をついて、今度は足元を見るように俯いた。 「星を手に入れたいのだと、そう言われたら何を用意すればいいのだろう」 そんな要求は比喩だとアルスラーンも判っているはずだ。判っていて、それが何の比喩なのか判らないから困っている。それこそ、冗談で空に手を伸ばしてみるほどに。 「こんなところでどうなさいました」 少年が二人で揃って空を見上げていると、回廊から声を掛けられた。 「ダリューン」 エラムが脇に避けると、テラスに出てきた黒衣の騎士にアルスラーンは同じ問いをする。 「星を手に入れたいと言われたら、何を用意すればいいと思う?」 「は……?」 ダリューンも最初は何か謎掛けかと思ったらしく、つい主の言葉を問い返す。まっすぐに見上げてくる瞳に、それが純粋な疑問だと悟って首を捻った。 誰が言ったかで、解釈のしようも大きく変わりそうな望みに聞こえる。 「ギーヴの得意分野かもしれませんな」 自称旅の吟遊詩人だ。彼自身がいくらでも使いそうな表現だと首を捻ると、アルスラーンは少し表情を曇らせた。 「そうなんだ、ギーヴにはそれが何か判っていたようだ」 「ギーヴ様が言われていたんですか?」 それでは宝石か何か、その辺りに違いないとエラムは拍子抜けしたような思いだ。 だがそれならアルスラーンも考え込みはしなかった。 「そうなんだ。ギーヴは笑って、『それはまた健気なことだ』と言っていた。星と健気がどう繋がるのかよく判らない」 「……それは誰の望みですか?」 薄々と察したダリューンの問いに、アルスラーンは考え込んだまま再び空を見上げる。 「が」 そうして、星を見上げて嘆息を漏らす。 「何が欲しいと訊ねても、はいつも何もいらないと言うんだ。だけど今朝、ギーヴの問いには星があればいいと返していた。比喩ですら教えてくれないのは、私には叶えられないものだからだろうか。それとも察することができないと思っているからなのか」 むしろ察して欲しくはないだろう。 ダリューンは旅の吟遊詩人と同じ感想を抱きながら、生真面目に悩む王子と、そして一緒になって考える友人の従者を見る。 恋色沙汰と縁遠い二人には、まだ押し隠した彼女の心を読み取ることができないらしい。 それにしても、正しくは星を「手に入れたい」ではなく、「あればいい」なのか。 「難儀な娘だ……」 悩む少年たちに、ダリューンはどうにか別の解釈を持ち込む。 「それはギーヴを煙に巻いていたのかもしれません」 「煙に巻く?」 「星は決して手に入らないものという意味で、手に入るはずのないものを望むことでギーヴの 質問に答えているけれど答えはないということです。似たようなことを何度もギーヴに訊ねら れたのかもしれません」 「でもダリューン様、それでは健気というのがよく判りません」 咄嗟の解釈では説得しきれないかともう一度唸り、そうして思いついたことを付け足す。 「それは、いつも殿下に申し上げるように、が何も望まぬことを指しているのではないか?ギーヴは恩賞目当てとはまた違うが、くれるというものを拒む男ではない」 「なるほどー」 エラムが納得したように頷いて、アルスラーンは軽く息を吐いて肩を落とした。 「ではやはり、私が叶えられるの望みはないのか」 「いいえ殿下それは違います」 ダリューンが強く否定して、アルスラーンは驚いて顔を上げた。アルスラーンが判らないのことを、ダリューンは判るというのだろうか。 少し、面白くない。 ダリューンは眉を下げて、戦場とはまるで違う優しげな表情で微笑んだ。 「彼女は、殿下へのかつての友誼のために戦いに挑んでいます。殿下が健やかに過ごされる ことこそが、恐らく何よりも嬉しい褒美となるでしょう」 これに間違いはないと、ダリューンは半ば確信している。 彼女は星を求めたのだ。 天上の星ではなく……地上の星を。 決して、手が届かぬその人を、星に例えて。 それですら、欲しいではなくただ「あればいい」と。 まったく見事なものだと感心していると、アルスラーンは考え込むように顎の下に手を当てた。 「……しかしそれは、単に私のためのことではないのか?」 「殿下、恩賞とは当人が喜ぶことこそが一番かと」 「そうか………」 首を傾げてどこか釈然としないものが残ったようだが、ダリューンの主はようやく頷いた。 「そうだな。では当面は健康に気をつけよう。そのうちも、のためになるものを望んでくれるかもしれない」 「そうなさいませ。さあ、夜風に長く当たられるのは身体に毒です。もうお部屋にお戻りになられてはいかかです?」 「判った」 ダリューンに促されて一歩踏み出したアルスラーンは、聞こえた笛の音に足を止めて振り返る。 「だ」 「静かな曲ですね」 エラムが心地良く耳を澄ますと、アルスラーンは苦笑して肩を竦める。 「どこからか、が見ているらしい。これは昔もう眠ったほうがいいと子守歌代わりに吹いてくれた曲だ」 傍にいなくても、ダリューンと同じようなことを忠告してくる幼馴染みに、アルスラーンは素直に従い二人を伴ってテラスを後にした。 |
「何を考えていますか」 配布元:capriccio 拍手お礼の品です。 友達に助けてもらっているのに、頼りっぱなしなのが嫌だった殿下。 ギーヴは恐らくアルスラーンが傍にいたことに気付いています。 長編TOP お題部屋へ |